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滲む墨痕
第1章 嚆矢濫觴
「お、あれ見てみ。潤だって」
誠二郎が、清潔感のあるひかえめな笑みを浮かべて言った。
導かれるまま視線を向けた潤は、その書に一目で心を奪われた。
作品の全体像を眺められる距離まで歩み寄り、まばたきもせずに見つめつづける。まるで自分に向けられているかのようなその字を。誠二郎が隣で「おお」とか「すごい」とか呟いていたが、その声はほとんど耳に入らずに掠めていった。
子供の頃に乗った絶叫マシーンのように、一度落ちたらもう自らの力では止まれない。風がびゅんびゅんと吹き抜け、しっかり掴まっていなければ飛ばされそうな恐怖感に襲われる。それでもどうしようもなく押し寄せる興奮に呑み込まれ、腹の底から叫ばずにはいられない。ふとそんな感覚を思い出した。
その激しさが過ぎ去ったあとに訪れたじっとりとした静けさは、倦怠感と妙な達成感、そして少しの喪失感を連れてきた。それは、夫がいない間に時折している自慰の余韻に浸っているときの感覚に似ていた。
潤は、会ったこともない書家の魂の虜になってしまったのだ。
それがすべてのはじまりだった。
嚆矢濫觴(こうしらんしょう)=物事のはじまり