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いつかの春に君と
第4章 君が桜のとき
いつものように家政婦が扉を開け、恭しく岩倉を出迎えた。
続いて奥から笙子が小走りで現れた。

美しい鴇色の薔薇の透し模様のシルクシフォンのドレスを着た笙子はうっすらと化粧をし、髪を綺麗に結い上げていた。
白く華奢な首筋には高貴な照りを湛えた真珠の首飾りが掛かっている。
まるで古典絵画の姫君のような…そのあまりの美しさに、岩倉は思わず息を飲んだ。

「岩倉先生、ようこそ。
…今日でお庭の桜が満開になりましたのよ。
ご一緒にお花見いたしましょう。
お花見の昼食をご用意いたしましたの。
さあ、こちらに…」
まるで天使のように清らかで愛くるしい笑顔を、岩倉に向けてくる。
無邪気に岩倉の腕を取り、庭園に誘う笙子は今すぐに抱きすくめたいほどに愛おしかった。

…岩倉は目を閉じ、心を鬼にして、告げた。

「…笙子さん。残念ですが、私はこれから京都に戻らなくてはなりません。
今日はお別れを申し上げにまいりました」

…笙子の華奢な指先が悴むように、岩倉の腕から力なく離れて行く。
しばらく無言だったが、やがて震える小さな声が聞こえた。
「…そうなのですか…」
俯いたその姿からは、笙子の表情は窺い知れない。
「…はい。残念ですが、明日からは大学病院の方にも出なくてはなりませんので…」
…こんなことを言いたいのではない。
本当に言いたいのは…。

「…そうですわよね…。
先生には先生を待っていらっしゃる患者さんがたくさんおられるのですもの。
…いつまでも私だけが先生を独り占めするわけにはまいりませんものね…」
ゆっくりと貌を上げたその美しい瞳には、水晶のように煌めく涙が溢れていた。
岩倉の胸は鷲掴みにされたように激しく痛んだ。
「笙子さん…」
笙子は静かに微笑んだ。
「…今まで…ありがとうございました…。
先生のお陰で…私は…閉ざされた闇の世界から出ることができました…。
どうか、これからも私のように闇の中で彷徨うひとを助けて差し上げください…」
そう言い切ると笙子は踵を返し、部屋の奥へと姿を消した。

「笙子さん…!」
追いかけようとして、足を止めた。

追いかけて何を言うつもりだ…。
彼女は自分を医師として必要としているのだ。
一人の男としてではない…。
例え自分が愛を告白しても、彼女を困らせるだけだ…。

岩倉は固唾を呑んで見守っていた家政婦に一礼し、一ノ瀬家を辞した。

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