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いつかの春に君と
第4章 君が桜のとき
「え?…それでちいちゃんはそのまま帰って来てしまったの?」
細い外国煙草に火を点ける手を止め、伽倻子は美しい眉を上げて岩倉を振り返った。

岩倉は努めて冷静に荷造りを続ける。
…あと小一時間でこの経堂の屋敷を出なくては、汽車に間に合わない。
「そうですよ。
笙子さんはもう私がいなくても大丈夫なのです。
私がそばにいては、彼女の自立の妨げにもなる」
…その美しい瞳に、涙を一杯に溜めた笙子の貌が脳裏に浮かぶ…。

いや、あれは自分が信頼する医者から離れる心細さからの涙だ…。
自惚れてはいけない。

岩倉はルイ・ヴィトンのスーツケースの鍵を閉めた。
「…彼女はこれからたくさんの素晴らしいひとに出会うでしょう。
彼女の未来の可能性を狭めてはならない」
自分に言い聞かせるように、呟く。

伽倻子がわざとらしく大きなため息を吐いた。
「…立派な紳士になったと思ったけれど、まだまだだわね。全然駄目」
「伽倻子さん?」
伽倻子は腕を組んで岩倉を見上げた。
真剣な眼差しには、いつもの人を揶揄うような色は皆無であった。
「ちいちゃんは優秀なドクターかも知れないけれど、ちっとも女心が分かってはいないわ。
笙子さんは貴方をドクターとして慕ってると、本気で思ってるの?」
「…当然です。ほかに何が…」
伽倻子はきっぱりと首を振る。
「笙子さんは、貴方に恋をしているのよ。
でなかったら、お別れと言われて泣いたりするものですか」
「…しかし…」
…彼女はまだ若い。
恋と信頼の情を混同しているのかも知れない…。

まるで岩倉の心を読み取るかのように、伽倻子はしみじみと続けた。
「…女はね、どんなに若くても自分の恋心を間違えたりしないわ。
信頼と恋しい気持ちの違いくらい、他人に教わらなくても分かるのよ…」

岩倉は思わずおし黙る。

優柔不断な岩倉に苛立ったように伽倻子は声を荒げた。
「しかしもかかしもないわ!
大体貴方は笙子さんをどう思っていらっしゃるの?
それをまず聞かせてちょうだい」


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