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いつかの春に君と
第4章 君が桜のとき
二軒ほど離れた小径まで小春をいざないながら、番傘を差し出す。
「差せ…。風邪をひく」
小春は遠慮したが、鬼塚の怒ったような貌を見て
「…では、ご一緒に…」
と頷いた。
鬼塚は小春を庇うように傘を差し、歩いた。
空き家の長屋の前まで来ると、小春を軒先に入れた。
小春の美しい黒髪には、透明な水晶の粒のような雨が滴っている。
上等な紬の着物も湿り気を帯びていた。
鬼塚は懐から手拭いを取り出し、髪を拭いてやる。
「…風邪を引いたらどうする。あんたは風邪を引きやすいのに…」
…昔から、小春は春先のこんな天気の日によく熱を出していた。
医者になど掛かれなかったから、鬼塚は必死に看病したものだ…。
…何気なく出た言葉に小春が睫毛を震わせ、番傘を握る鬼塚の手に手を強く重ねた。
「なぜ、私が風邪を引きやすいことをご存知なのですか?」
鬼塚の手がびくりと震えた。
小春から目を逸らし、心を押し殺しながら淡々と答える。
「…以前にあんたから聞いたのだろう…」
小春は激しく首を振り、鬼塚に縋り付いた。
「いいえ。私はそのようなことを申し上げた覚えはありません。
…なぜ、貴方はご存知なのですか?
…もしかして…貴方は…徹さんは…私をご存知なのではないですか?
…私が失っている記憶を…貴方はご存知なのではないですか?」
早鐘のように打つ心臓の音を聞かれないように、小春から背を向ける。
「俺は何も知らない。あんたの思い違いだ」
小春が鬼塚の背中に抱きついた。
「いいえ!貴方は…貴方は私のことを知っていらっしゃるわ!
…そして…私も貴方を知っている…。
貴方は…とても身近で…それは…」
…不意に小春が唇を噛み締め、貌を覆った。
「…思い出せない…!なぜ思い出せないのでしょう…!
貴方は…決して忘れてはならないひとに違いないのに!」
嗚咽を漏らす小春を思わず抱き寄せる。
「思い出すな。思い出す必要はない。あんたは永遠に思い出さなくていいんだ」
「…徹さん…?」
小春が腕の中で、鬼塚を見上げる。
鬼塚の表情を微塵も見逃すまいと、瞬きすらしなかった。
…と、細かな霧のような雨が烟る中、小春の背後…小径の先に、傘もささずに棒立ちにこちらを凝視する女の姿があった。
鋭い眼差しは尋常ではない意思を秘めていた。
…鬼塚は隻眼を眇めた。
…美鈴ではない。
あれは…
誰だ…。
「差せ…。風邪をひく」
小春は遠慮したが、鬼塚の怒ったような貌を見て
「…では、ご一緒に…」
と頷いた。
鬼塚は小春を庇うように傘を差し、歩いた。
空き家の長屋の前まで来ると、小春を軒先に入れた。
小春の美しい黒髪には、透明な水晶の粒のような雨が滴っている。
上等な紬の着物も湿り気を帯びていた。
鬼塚は懐から手拭いを取り出し、髪を拭いてやる。
「…風邪を引いたらどうする。あんたは風邪を引きやすいのに…」
…昔から、小春は春先のこんな天気の日によく熱を出していた。
医者になど掛かれなかったから、鬼塚は必死に看病したものだ…。
…何気なく出た言葉に小春が睫毛を震わせ、番傘を握る鬼塚の手に手を強く重ねた。
「なぜ、私が風邪を引きやすいことをご存知なのですか?」
鬼塚の手がびくりと震えた。
小春から目を逸らし、心を押し殺しながら淡々と答える。
「…以前にあんたから聞いたのだろう…」
小春は激しく首を振り、鬼塚に縋り付いた。
「いいえ。私はそのようなことを申し上げた覚えはありません。
…なぜ、貴方はご存知なのですか?
…もしかして…貴方は…徹さんは…私をご存知なのではないですか?
…私が失っている記憶を…貴方はご存知なのではないですか?」
早鐘のように打つ心臓の音を聞かれないように、小春から背を向ける。
「俺は何も知らない。あんたの思い違いだ」
小春が鬼塚の背中に抱きついた。
「いいえ!貴方は…貴方は私のことを知っていらっしゃるわ!
…そして…私も貴方を知っている…。
貴方は…とても身近で…それは…」
…不意に小春が唇を噛み締め、貌を覆った。
「…思い出せない…!なぜ思い出せないのでしょう…!
貴方は…決して忘れてはならないひとに違いないのに!」
嗚咽を漏らす小春を思わず抱き寄せる。
「思い出すな。思い出す必要はない。あんたは永遠に思い出さなくていいんだ」
「…徹さん…?」
小春が腕の中で、鬼塚を見上げる。
鬼塚の表情を微塵も見逃すまいと、瞬きすらしなかった。
…と、細かな霧のような雨が烟る中、小春の背後…小径の先に、傘もささずに棒立ちにこちらを凝視する女の姿があった。
鋭い眼差しは尋常ではない意思を秘めていた。
…鬼塚は隻眼を眇めた。
…美鈴ではない。
あれは…
誰だ…。