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いつかの春に君と
第1章 桜のもとにて君と別れ
男は鬼塚に朝稽古を付けると、そのままあの禁欲的な軍服に着替え、軍本部へと出勤した。
同じ家に住んでいても一緒に食事を摂ることはなかった。
鬼塚は聾唖の老婆の家政婦の給仕で食事をした。
老婆は耳と口が不自由だったが、段々と鬼塚と心を通わすようになり、筆談で話すようになった。
老婆は鬼塚を大層可愛がってくれた。
食事は豊かだったし、衣服も華美なものではなかったが仕立ての良い上質なものを与えられた。
革靴を履いたのも生まれて初めてだった。
孤児院や救護院にいる時とは雲泥の差だった。
稽古や鍛錬は辛いが、自分が強くなる為だと思えば耐えられた。
だが、学校には行かせてもらえなかった。
男の職業柄、鬼塚を市民の中に交わらせる訳にはいかないからだ。
聾唖の家政婦を雇っているのも秘密を漏らさない為だろう。
鬼塚はやや落胆した。


しかしその胸中を読むかのように、鬼塚には憲兵隊の中で選りすぐりの頭脳派の隊員が家庭教師に寄越された。
国語、数学、語学、歴史、地理、物理、化学、航空学、宗教学…。
あらゆる学科を詰め込むように教えられた。

元々、頭が良かった鬼塚は乾いた砂が水を吸収するかのように様々な知識を得ていった。
家庭教師の隊員は舌を巻いた。
「さすがは大佐の秘蔵っ子だな。
憲兵隊では君の噂でもちきりだよ。人嫌い子ども嫌いの大佐が孤児を引き取るなんて…てね」

…秘蔵っ子…。そうなのかな。
あの淡々とした対応はとてもそうは思えない。

おそらく大佐は自分を盲目的に服従する優秀なドーベルマンのように躾け、育てたいのだろうと鬼塚は察していた。

武道の訓練以外は雑談をすることもない。
同じ家に住んでいて、心の交流もない。
別に寂しくはない。
男は鬼塚に有り余る豊かな衣食住の環境を与え、やや特殊ではあるが高度な教育も与えてくれた。
誰よりも強くなる術も教え込もうとしている。

…贅沢を言ったらバチが当たる。
鬼塚は今日も稽古を付けた後、無言で出勤する男の誰よりも頑強な…しかし孤高とも言える後ろ姿を見送ったのだった。

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