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いつかの春に君と
第1章 桜のもとにて君と別れ
…その夜、就寝の挨拶に行こうと書斎に向かった鬼塚は、部屋の扉の前で思わず立ち止まった。
書斎の扉は僅かに開いていた。
…男が書斎机の前に座り、外国煙草を燻らせているのが見えた。
…黒い紗の着流し…。
男は家にいる時はいつも着物だった。
部屋には、蓄音機が奏でる外国女が唄う甘ったるい愛の唄が流れていた。
…大佐が音楽を聴くなんて…。
凡そ、娯楽とは一切無縁の男だ。
そう思っていた。
男は、一枚の写真をじっと見つめていた。
鬼塚は隻眼を見張った。
…あの写真だ…!
…和葉…我、御身だけを愛す…
男の筆跡が蘇る。
男は…息を呑むほどに孤独の色に満ちた表情をしていた。
常に誰よりも力強く、鬼塚からは手が届かないほどに大人で、如何なる時も落ち着き払い、氷のように無表情な男からは想像がつかぬほどに、寂寥感に満ちた貌をしていたのだ。
慌てて後退りしようとしたその時、気配を感じたのか男が貌を上げゆっくりと振り返った。
鬼塚と眼が合う。
男は驚きも怒りもせずに、静かに告げた。
「…入れ」
一瞬の逡巡ののち、鬼塚は書斎の中に入った。
男は写真を大切そうに置き、外国煙草を咥えながらウィスキーをグラスに注いだ。
「…今日は命日だ」
独り言のような言葉…。
…誰のとも言わない。
鬼塚は黙っていた。
目線も上げずに男が尋ねる。
「…誰のだと聞かないのか?」
「…聞きません」
「なぜだ?」
「…大佐が聞いて欲しくなさそうだからです」
男は精悍な眉を跳ね上げ、鬼塚を見た。
鷹のように鋭い眼が柔らかく細められる。
「お前は賢いな…」
不意に男が立ち上がり、手を差し伸べた。
「来い」
「…え…?」
何を言われたか分からずに立ち竦む鬼塚の腕が強引に引き寄せられ、男の腕の中に抱き込まれた。
心臓が止まる程に驚く鬼塚を可笑しそうに見下ろし、悪戯めいて囁いた。
「…ダンスを教えてやる。これも諜報任務には必要な教科だ」
書斎の扉は僅かに開いていた。
…男が書斎机の前に座り、外国煙草を燻らせているのが見えた。
…黒い紗の着流し…。
男は家にいる時はいつも着物だった。
部屋には、蓄音機が奏でる外国女が唄う甘ったるい愛の唄が流れていた。
…大佐が音楽を聴くなんて…。
凡そ、娯楽とは一切無縁の男だ。
そう思っていた。
男は、一枚の写真をじっと見つめていた。
鬼塚は隻眼を見張った。
…あの写真だ…!
…和葉…我、御身だけを愛す…
男の筆跡が蘇る。
男は…息を呑むほどに孤独の色に満ちた表情をしていた。
常に誰よりも力強く、鬼塚からは手が届かないほどに大人で、如何なる時も落ち着き払い、氷のように無表情な男からは想像がつかぬほどに、寂寥感に満ちた貌をしていたのだ。
慌てて後退りしようとしたその時、気配を感じたのか男が貌を上げゆっくりと振り返った。
鬼塚と眼が合う。
男は驚きも怒りもせずに、静かに告げた。
「…入れ」
一瞬の逡巡ののち、鬼塚は書斎の中に入った。
男は写真を大切そうに置き、外国煙草を咥えながらウィスキーをグラスに注いだ。
「…今日は命日だ」
独り言のような言葉…。
…誰のとも言わない。
鬼塚は黙っていた。
目線も上げずに男が尋ねる。
「…誰のだと聞かないのか?」
「…聞きません」
「なぜだ?」
「…大佐が聞いて欲しくなさそうだからです」
男は精悍な眉を跳ね上げ、鬼塚を見た。
鷹のように鋭い眼が柔らかく細められる。
「お前は賢いな…」
不意に男が立ち上がり、手を差し伸べた。
「来い」
「…え…?」
何を言われたか分からずに立ち竦む鬼塚の腕が強引に引き寄せられ、男の腕の中に抱き込まれた。
心臓が止まる程に驚く鬼塚を可笑しそうに見下ろし、悪戯めいて囁いた。
「…ダンスを教えてやる。これも諜報任務には必要な教科だ」