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いつかの春に君と
第1章 桜のもとにて君と別れ
ウェイターが音もなく近づき床に落ちたバターナイフを拾い、恭しく新しいナイフを卓に置いた。
再び静けさが辺りに広がり始めた。

隣席の家族は和やかに会話を始めていた。
…小春は更に臈丈け、類稀なる美少女に成長していた。
黒い絹糸のように艶やかな長い黒髪を高価そうな真珠の髪留めで纏め、下に垂らしていた。
白い肌はまるで練絹のようだし、優美な眉に黒目勝ちの大きな瞳は人形のようだ。
整った小さな鼻、形の良い唇は紅玉のような色をしている。

…鈴を鳴らすような可愛らしい声は聞き覚えがある。
鬼塚は思わず瞼を閉じた。
小春の懐かしい声が鼓膜に優しく届く。

「お父様、お母様、今日は本当にありがとう。
…でも、ピアノのコンクールで入賞したくらいで…こんなに素晴らしいレストランでお祝いして下さるなんて…贅沢だわ」
…そうか…。小春はピアノを習わせてもらっているのか…。

「何を言うの。笙子さん。貴女はピアノを習い始めてまだ二年しか経っていないのに、賞を頂いたのですよ。
貴女の努力の賜物だわ。本当に偉かったわね…」
隣に座った品の良いやや年配の夫人が、愛おしくて堪らないように小春の髪を撫でた。
「そうだよ、笙子。笙子はお父様とお母様の宝物だ。
綺麗で可愛くて優しくて利発で努力家で…。
笙子は神様からのかけがえのない贈り物だ。
これくらいのお祝いでは足りないくらいだよ」
小春の白い手を優しく握るのは、父親だろう。
白髪混じりの髪をきちんと撫で付け、上質なスーツに身を包んでいる温厚そうな紳士だ。

…すごく優しそうなひとたちだ。
本当に…小春を可愛がってくれているんだ。
…あんな…酷い目に遭った小春を引き取ってくれて、惜しみない愛を与えてくれた…。

本当は今すぐお礼を言いたい。
けれど、それは出来ない。
小春の幸せを壊す訳にはいかない。

…鬼塚にできることは、幸せそうな家族の会話をそっと聴きながら、静かに涙を流すことだけだった。

涙を拭っていると、白い手巾が差し出された。
男は何も言わなかった。

鬼塚は手巾で涙を拭い、わざと不貞腐れたように告げた。
「…これも、大佐のお祝いですか?」
男は唇を歪めて不器用そうに笑った。
「…これくらいしか、お前が喜ぶものが思い浮かばなかった…」

鬼塚の目に新しい涙が溢れた。
…狡いよ…本当に…。
言葉に出せないから、胸の中で呟いた。





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