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姦譎の華
第29章 29
 もしもこの期間、母が普段通りの生活を送り、顔を合わせることが多かったならば、母にも自分にも、別の未来が訪れたのかもしれなかった。偶さかその一つには、親子三人でアハハウフフと過ごす奇跡も、無きにしも非らずだったのかもしれない。

 だが誰もいない家に一人、暗くした部屋でベッドに横たわっていれば、奇跡なんてもたらされるわけがなかった。母が最後にかけた言葉が、数日経とうが乾きもせずに脳膜の裏にべったりと貼りついていた。

 ──その日も、母は遅くに帰ってきた。ドアを隙かしてリビングを覗くと、着替えもせず、ソファに浅く腰掛けて前屈みにこめかみを抑えていた。連日の残業で相当疲れているようだ。

 しかし知ったことではない。むしろ、疲れて弱っているほうが都合がいい。

「ね、ママ」

 別に足音を忍ばせたわけではないのに、声をかけられた母はビクッと肩を弾ませた。そういえばこの呼称を用いたのは久しぶりだった。母のほうも、とっさに自分のことだとは認識できず、

「……え」
「ママ、ごはん食べたの?」
「う、ううん、まだ、だけど……」
「作った残りあるんだけど、食べる?」
「……っ。……あ、ありがとう……。た、食べるわ」

 驚いている。しかし本当に娘のほうから話しかけてくれたのだとわかり、蒼ざめていた血色が急によくなっていった。見上げる黒目も揺らいでいる。けれどもまだ、泣いてもらっては困る。

「その前に、ちょっと話、してもいい?」
「ええ、……ええ。も、もちろんよ。なあに? 何でも言って」

 うまくはりきってもらうことができた。

 しばらくは無言、棒立ちで唇を中途半端に開いては結ぶを繰り返した。母が手を引いて隣へと座らせ、背中を軽く摩すってくる。

「どうしたの? 大丈夫よ、ママ何でも聞くわ」
「……ほんとうに?」
「もちろんよ、親ですもの」

 言い淀むだけでなく、震える演技まで加えたかったのだが、ムカつきのあまり不自然になりそうだからやめておいた。ただ、うん、と頷いてから、腹立ちが落ち着いてくるまで充分に間を取る。あまり急かしても逆に話しにくくなると践んだ母は、真摯な顔つきを保ったまま、娘が口を開くのを辛抱強く待っていた。

「……あのね」
「うん?」
「私ね、華村って苗字、気に入ってるんだ」
「苗字、変えたくない?」
「うん」
「そう……」
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