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姦譎の華
第30章 30
「あ、青だ。行こ行こ。早くっ」
「あっ……」

 まだ眩惑は治まっていないというのに、愛紗実が男の子の手を引いて横断歩道を渡り始めた。多英もつんのめり気味に一歩踏み出すが、足首と膝が砕け、小股に数歩進んだところでしゃがんでしまった。

 後方を一瞥しておきながら、愛紗実は立ち止まることなく背中を遠ざけていった。チェーンが伸びていく。懸命に腰を上げて前を目指そうとするが、やはり、脚に力が入らない。まだ半分にも到達していない道幅が何キロにも感じられた。右手の停止線に一台のダンプが止まる。裸同然で渡っている女が、見えないわけがない。

(うあっ……、だめっ……)

 賞賛、羨望、嫉妬。評判の秘書として絶えず人々の目線を浴びてきた。見られることには、慣れているはずだった。しかしいま、全身に感じているものは、向けられ慣れてきたどの視線にも当てはまらない。

「あ、やばい。急いでっ」

 スタートが遅れたせいで、早や歩行者用信号が点滅をし始めた。チェーンを捨てた愛紗実が男の子と一緒に駆け出すと、つられた島尾と稲田も走り出した。

「い、……いや……」
 ペースアップについていけなかった上に、完全に両手と両膝を道路に落としてしまった。愛紗実たちが渡り切ったがちょうど、傍らのポールに赤々とした光が灯る。「ひ……!」

 右手にいたダンプが、けたたましくクラクションを鳴らした。
 自分の存在が見えていた証拠、頭蓋骨に反響する容赦のない警音は、公道で猥行をはたらいている女への痛罵だ。

「あ……、ああっ……」

 まさに恥も外聞もかなぐり捨て、多英は四つん這いに中洲まで避難した。やっと発進することができたダンプの車音が通り過ぎていく。お節介なことに中央分離帯には街灯が設けられており、周囲をスポットライトのようにオレンジ色の光で照らしていた。信号を無視してでもあと半分を渡り切りたいが、這い出すことができない怨めしいタイミングで車がやってきてしまう。
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