この作品は18歳未満閲覧禁止です
- 小
- 中
- 大
- テキストサイズ
実業家お嬢様と鈍感従者
第8章 意中彼落作戦・五 汝、押して駄目なら引いてみろ!
「ああ、リラの花が丁度見頃ね――」
公園の近くを通った時、アンジェラが車窓の外を見てそう呟いた。
つられてヘンリーも外に視線をやると、確かにリラの木が薄ピンクや薄紫色の小さな花を沢山付けていた。
「本当ですね」
「そうか、もうすぐ六月だものね……早いなあ」
彼女はそう言って暫く遠くを見るような目をしていたが、ふいにくすりと顔をほころばせる。
「ねえヘンリー、覚えている? 『幸福のリラの花』のこと」
「ええ、覚えております」
それは英国に古くから言い伝えられる伝承のようなものだ。
「四枚の花弁の花の中から五枚のものを見つけられると、幸せになれるのよね」
「小さな頃の貴女は、『幸福の花』をそれはそれは欲しがられて……」
昔を思い出して目を細めて苦笑したヘンリーに、彼女は視線を移す。
「ヘンリーにも手伝ってもらって探したけれど、結局見つからなかったのよね」
「ええ、貴女は言い出したら見つかるまで、諦められない人でしたからね」
「見つからないとね、いつも貴方はこう言ったわ……『貴女は既に幸せだから幸福の花は見つからない』って」
子供の頃とはいえ、よくそんな歯の浮くようなことを言ったなと、ヘンリーは恥ずかしくなってとぼけた。
「言いましたか?」
「言ったわ。今から考えると凄い殺し文句ね」
「そう、からかわないでください」
肩を竦めて見せたヘンリーを、アンジェラはくすくすと笑って見つめる。
「私……今だったら見つけられるかしら『幸福の花』――」
馬車のスライド式の窓を、彼女が手袋に包まれた細い指で少しだけ開く。
途端にリラの花の柔らかな香りが車の中に漂い始める。
小花を付けた房が風に揺られ、近くに来た人々に、何故か切なさを呼び起こさせるその甘美な香りを振りまく。
その香りを深く深呼吸して吸い込んだ彼女はヘンリーに返答を促すように、その蒼い瞳を彼にひたと合わせてきた。
――若者の無邪気さ、初恋。
そんなリラの花言葉を思い出す。今の彼女にぴったりの花。
そして、今だけに相応しい花でもある。
彼女は大人になったとき、この花を見てきっと昔の拙い初恋を思い出し、苦笑するのだろう。