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実業家お嬢様と鈍感従者
第8章 意中彼落作戦・五 汝、押して駄目なら引いてみろ!
それでいいと思った。
彼女がこの先誰かと一緒になろうとも、何かを見て何かを感じる時、真っ先でなくてよいから、何番目かに自分を思い出してくれれば……。
しかしそう思った途端、ヘンリーの黒いジャケットの胸がチクリと痛みを覚える。
何だろうと思ったが、直ぐに納得した。
今まで自分が世界の全てだったアンジェラが広い世界を見て羽ばたく……その事にまるで親鳥のように一抹の寂しさを感じたのだ。
ヘンリーは彼女の真っ直ぐな視線を受け止めて応えた。
「見つからないでしょう。貴女はいつだって、幸せの中にいるべき人なのですから――」
彼のその応えに満足したのか、アンジェラは軽く胸を上下して深呼吸すると「幸せ……かあ」と呟き、クッションを抱いて瞳を閉じた。
数分後、彼女はすうすうと寝息を立てて揺られる馬車の中、眠りに落ちていた。
眠ってしまった彼女の安らかな寝顔は、とても幼く見えた。
長い睫毛が彼女の白い肌に影を作り出す。
この幸福な時間がずっと続けば良いのに――そう思ってしまい、ヘンリーは内心苦笑する。
彼の主は元気すぎて、起きていたらいつも最上の笑顔を振りまいて彼を困らせる事を言うからだ。
膝掛けをそっと彼女に掛けると、ヘンリーも一時瞼を閉じた。
小さな少女が熱心に花を弄くっている光景が、ありありと瞼の裏に浮かんでくる。
そしてその少女はみるみる大きくなり、手のひらいっぱいの小さな花を幸せそうに見つめていた。
(この先私が誰と一緒になろうとも、この花を見て思い出すのはお嬢様のことだ……そしてそれは恐らく死ぬまで変わらないのであろう――)
*
マシュー卿の母ロックウェル伯爵夫人はアンジェラの母の友人だった。
夫人主催の昼食会へ母と訪れると、マシュー卿が玄関ホールで彼女達を待っていた。
「いらっしゃい、レディーアンジェラ。貴女にお会いできるのを指折り数えて待っていましたよ」
彼はアンジェラの手にキスをすると、蠱惑的な微笑を浮かべた。
アンジェラは彼のオーバーな社交辞令に内心戸惑いながら、微笑み返した。