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実業家お嬢様と鈍感従者
第8章 意中彼落作戦・五 汝、押して駄目なら引いてみろ!
ヘンリーははっとしてアンジェラの事を振り替えると、彼女はサロンのエントランスで足を止めていた。
その表情は先ほどの可愛らしい笑顔が剥がれ落ち、一部始終を聞いてしまったのは疑いようもなかった。
ヘンリーはこんなあられもない侮辱を耳にして、主が泣き出すのではないかと早足で彼女の元に近寄る。
だが彼女はそんな彼を見て、眉尻を下げて少し困ったように笑っただけだった。
「お嬢様……」
何と声を掛けてよいか戸惑うヘンリーに、彼女が小首を傾げる。
「どうしてそんな悲壮な顔をするの?」
「……あの方達の言い分はあまりにも酷すぎます。仮にも淑女が口になさるべきことではございません」
そう怒りを押し殺して言うと、意外にも彼女は「ヘンリーは結構熱血なのね」とおどけて見せた。
「誰にでも得手不得手があるわ。あの方達はきっと『貴族』であることが得意なのだわ――」
彼女はそう言って小さく溜め息を付いた。
その横顔が妙に大人びて見えて、ヘンリーは自分の失態に気付いて愕然とした。
貴族が趣味でもなく労働に従事するのは忌避されることだ。
金を稼ぐ行為は労働者階級のものが行う悪徳であり、恥ずべき行為とされている。
きっと彼女はこの三年間、この上流階級に於いてこんな陰口を、たった一人で甘んじて受けてきたのだ。
考えれば分かる事であったのに、彼女に向けられる軽蔑をヘンリーは今まで全く気付いてあげられなかった。
逞しい胸に収まった心臓が苦しさを訴え、自責の念に駆られる。
気がつくとヘンリーは誰からも見えないように、彼女の絹の手袋に包まれた細い手を、そっと取っていた。
「私は――」
「……ヘンリー?」
「私はお嬢様が今までどれだけ頑張ってこられたかを知っています。私は貴女を誇りに思っております」
ヘンリーは心の底からそう思い、アンジェラの蒼い瞳を見てきっぱりと伝えた。
彼女は大きな瞳を見開いて驚いた様子だった。
「……ありがとう」
そう言って満面の微笑みを浮かべた彼女の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。