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実業家お嬢様と鈍感従者
第9章 求婚
「アンジー……我慢しなくていい」
彼の広くて逞しい胸に顔を埋められ、昔のように語り掛けられた言葉を聞いて、アンジェラの中の緊張の糸が切れた。
彼女は彼にすがり付いて、堰を切ったように声を上げて泣いてしまった。
*
馬車の揺れが、深い眠りから僅かに意識を覚醒させる。
薄っすらと開いた瞳に、目の前に座ったレディーズメイドが馬車の壁に凭れ掛かって眠っているのが映った。
規則正しいガタガタという馬車の車輪の音に、覚醒し始めた意識がまたゆっくりとまどろむ。
(ああ、そうか……領地に帰るのだったわ……)
自分の置かれた状況をぼうとした頭の隅で確認した時、アンジェラは自分の右半身が暖かいことに気がつき、その気持ちよさに思わず頬ずりする。
身じろぎした彼女の視界に黒いものが映りこんだ。
「……寒いですか?」
頭上から気遣わしげに掛けられたハスキーな声に我に帰った彼女は、驚いて顔を上げて声の主――ヘンリーを見た。
思いがけず直ぐ目の前にあった彼の緑色の瞳を見つめてしまい、彼女はばっと身体を離した。
「ごご……」
ごめんなさいと謝ろうとどもるアンジェラに、彼は唇の前に人差し指を立ててシーと言うと、目だけでちらりとメイドを指した。
メイドは「う~~ん」と小さくうなったが、まだすやすやと寝ていた。
彼女は起こさないよう、小さな声で「ごめんなさい」と謝った。
彼は小さく被りを振ると「寒くないですか?」と聞き直して来た。
アンジェラは赤くなる頬を見られたくなくて、俯いて大丈夫と呟いた。
今は夏真っ盛りの八月半ば。
とはいえイングランドの夏は湿気もなく気温も高くない。
日が傾き始めると肌寒ささえ感じるほどだ。
そして議会も閉会するため、一家はロンドンを後にし、領地のオルソープへと移動していた。
領地までは直線距離で約六十マイル。
ゆっくりとした馬車でも、大体九時間前後で辿り着ける。
しかし乗っているだけではやはり退屈で、アンジェラはいつしかヘンリーの肩に凭れ掛かって眠ってしまったようだ。
(すりすりしちゃった……)
布越しに感じた彼の引き締まった二の腕の感触を思い出すと、恥ずかしさに拍車がかかり、そわそわと気持ちが落ち着かなくなる。