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理想というまやかし
第2章 憂いの皇子

 有り難うございます、と、女の愛らしい顔がくしゃりと綻ぶ。本当に苦手だったので助かりました、と、細い腕を胸元に置いて両手を顎の下に添える仕草は、彼女が自身の愛らしさを自覚している風でもあるのに、まるでわざとらしさがない。


「いいえ。偶然とは言え、通りかかって良かったです。貴女が──…えっと」

「福井です。福井未沙(ふくいみさ)」

「福井さん。……あ、私は飯塚りとです。お隣なのに、遅ればせながら」

「飯塚さんですね。またお会いするかも知れませんし、今後ともよろしくお願いします」


 少女のように屈託ない笑顔を残して、女が扉の向こうへ消えた。


 隣の住人と顔を合わせたら、言いたいことが山ほどあった。

 積もり積もった苦情がりとの頭に戻ってきたのは、自分も部屋に入ったあとだ。

 内鍵をかけた途端、腰の奥が後ろ暗い疼きに震えた。高鳴る胸は、きっと田んぼ道を歩いてきたからだ。顔が熱いのは初夏の陽気を浴びてきたから。

 あの女はりとをまるきり知らないが、りとは彼女を知っている。全裸で男に傅いて、加虐を請って腰をうねらせることもあれば、下着としての機能を放置した淫らな布をまとって、男と身体を擦りつけ合いながら唇を重ねていることもある。
 夜闇を連れた街灯に浮いた女の肌は、もっと青白かったのに、さっき見た肌は、丹念に手入れされた橙色だった。乳房も尻ももっと柔らかに見えたのに、さっきの女の肉体は、隙がないほど締まりがあった。昼間の健全な下着をつけているせいだ。しかしきっと僅かにでも呼び水を施せば、しっとりと濡れた高い声をいじらしく上げる。股を開かせれば、朝露に濡れた森林のような茂みの奥に、手前の食糧に一秒でも早くありつこうとよだれを垂らす獣の口に似た肉の窪みが現れる。
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