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濡れた視線(改定版)
第1章 魅せられて
携帯越しに届けられる濁りの無い瑞々しい声紋。それは通話を終えた勇矢の鼓膜に心地良い残響を遺すと、ベランダから舞い込む夏の生緩い夜風が、優しく頬を撫でるようだった…。

『あっ!手土産…』引っ越しの作業に夢中で、肝心な大家への手土産を買い忘れていた事に気付き、腰巻にしたバスタオルからTシャツとジーンズに着替えると、国道沿いに立派な酒販店があることを思い出し、慌てて外に駆け出していた勇矢。

マンションを出て歩くこと数分。スワンボートの浮かぶ水辺を横目に、そのまま国道に沿って歩くこと5、6分。立派な構えの店内へ足を踏み入れると、店主と思われる恰幅の良い男性に声を掛けられていた。

『いらっしゃいませ!お遣い物ですか?それともご自分で?』

『実は今日引っ越して来たばかりなんですが、大家さんへの手土産にと思って…』

『お客さん、お近くですか?』

『ここから徒歩10分前後、国道から少し入った煉瓦貼りの…』

『もしかして大家さん、大地主の箕田さんじゃ?』

『えっ!ご存知なんですか?』

『この界隈じゃ有名な大地主でね、スワンボートの水辺の脇に建つラブホテルも箕田さんが大家でね、良心的な価格で若い人達には人気があるみたいですよ。でも気の毒にね、子宝にも恵まれず、46歳の若さで未亡人だなんて…』

『えぇ!未亡人?』

『そうなんですよ、今ご主人がご健在でしたら64歳。潤子さんが28歳の時、46歳で先代の跡を継いだご主人に嫁いでね、歳の開きはありましたけど、とても仲睦まじいご夫婦でね、残念ながら5年前に脳卒中で亡くなってしまい、暮らしに不自由は無いとしても、あの広い屋敷で独り暮らしをなさってるんです…』

『そうなんですか、独り暮らしのご婦人に日本酒の手土産じゃそぐわないですね』

『お客さん、ご縁ですね!箕田さん、うちの店の日本酒愛好会のメンバーでね、ご主人が亡くなられた後は潤子さんが幹事役を引き受けてくれて、年に1度の酒蔵見学会には必ず参加してくれるんですよ。これは最近入荷した山廃仕込みの酒ですけど、数量限定で限られた店にしか入らない酒でね、少し値は張りますけど、間違いなく悦ばれますよ…』

店主に勧められるまま、その山廃仕込みの日本酒を買い求めた勇矢。マンションに戻る道すがら、疲れきっていた筈の足取りが、心なしか軽やかになっていた。
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