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爛れる月面
第5章 つきやあらぬ
 車は、ハザードで周囲を明滅させて駐まった。最後の真暗闇で目が疲れたのか、井上はヘッドレストに頭をついて眉間を抑えている。ライトが道しるべとしてアパートへと続く細路の入口を照らしているが、紅美子は井上のほうへ体を向けたまま、降りようとしなかった。

「早く靴を履け」
「お願い。最後くらい、サービスして」

 頑として居座る紅美子に苦笑した井上は、

「……交換する前に、もっと重要なことがあるだろ」
 姿勢を変えないまま、「選択、だ。念のため言っておくが、選ぶほうだぞ」

 眉を顰めている紅美子へ、手のひらを差し出した。

「マンションの鍵」

 バッグからキーケースを取り出し、鍵を外して置くと、

「どうやら腑に落ちてないな。選ぶためには、当然、対象はひとつではだめだ。複数ないといけない。その中から、交換したい奴を選ぶ。近親相姦にはその選択肢が絶対的に無い。君も徹くんも、選んじゃいなかったし、選ばれてもいなかった」

 鍵をポケットに仕舞ってから身を起こし、カーナビを操作し始める。

「複数の中から選ぶからこそ、結婚には意味がある。きっと徹くんは君を選ぶ。君も、全てを許して、今から徹くんを選ぶ。僕は選ばれなかった。それだけのことだ」
 再び、神楽坂に行き先がセットされた。「以上で講義は終わりだ。行けよ」

 恥ずかしい質問への答えを、遅れて聞くことができた紅美子が、

「映画とかなら、ここでブチューってやるシーンだよね?」

 と言うと、笑った井上は甲を扇いだ。

「やめてくれ。これから一人で運転して東京まで帰るんだぞ」
「……そだね」

 ブーツを履き込み、紅美子は思い切って外へ出た。山風の吹く外は東京よりもはるかに寒く、コートの袷を狭め、運転席の側へと小走りに回る。
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