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爛れる月面
第1章 違う空を見ている
「魔除けになってる?」
「そだね、効果はあると思う。ここんとこぜんぜんナンパされてないし」
「よかった。クミちゃんは僕のものだからね」
「別に徹のものじゃない。私は、私のもの」
「他の誰かのものじゃなければいい」
「たしかに」
 紅美子は睫毛を下げて細かく数度頷き、「そういう意味なら、誰のものでもないな」

 指輪から徹の顔へと視線を移すと、目が赤らみ、潤んで揺らいでいた。しなやかな肢体を両手に抱えておきながら、許しを出すまでは固く我慢をして待っている。

 しかし紅美子は、

「ところで徹。今、『僕』っつったね?」
「えっ……、あ、うん……、ごめん」
「結構定着してきてると思ってたのになー。こっち来てから油断してんじゃない?」
「会社で話すのは目上の人ばかりだから」
「会社は会社、私の前では私の前。ほら、練習してみ?」
「……俺」

 徹の一人称はずっと、僕、だった。結婚を決めたときに、なんだか軟弱な感じがするから変えて、と紅美子が要求すると、徹は文句を言わず受け入れた。

 けれども同時に、「クミちゃん」という呼称も改めるよう言ったのだが、こちらについては大いに難色を示された。クミちゃんはクミちゃんだからという、理由になっていない理由を述べられ、加えて、では何と呼んだらいいのかと逆に問われてしまい、たしかに徹に呼ばれるとすると「クミちゃん」以外が全くしっくりと来そうになく、やむをえず一旦保留としている。

「学校の英語の発音練習じゃないんだからさ、文章でしゃべんないと」

 呆れ笑いで促すと、

「俺は、……クミちゃんのもの?」

 と、おずおずと尋ねてきた。

「……そう」紅美子は微笑んだまま、後ろ頭に手のひらを広げ、近くまで引き寄せた。「徹は、私のもの。そうだよね?」
「もちろん」
「女、連れ込んでない?」
「もちろん」

 顔に浴びる吐息が熱くなっている。そろそろいいかな、と、褒美を遣わせるかのような気持ちで、紅美子は唇を近づけていった。

 あと少し、というところで、ソファの肘掛に置いてあった徹の携帯が鳴り始めた。
 接近を止める。メロディは続いている。なのに徹は動こうとしない。
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