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爛れる月面
第1章 違う空を見ている
 紅美子の母親は、鐘ヶ淵で小さなスナックを営んでいる。今も店の前の通りに出て電話してきたらしく、街音に混じってカラオケが聞こえてきていた。大繁盛というわけではないが、常連客も付き、開業時の借金を地道に返していっている。紅美子は、店の仕込みなどを手伝ったことはあっても、開店後のカウンターに立ったことは一度もなかった。客たちの前に紅美子が出ると徹が嫌がるのを、母が重々承知していたからだ。母は徹が大好きだった。下手をすると、娘よりも大事に思っているかもしれない。

「……クミちゃん」

 また、徹が灰皿を紅美子の前に差し出してきた。気がつけば、指に挟んでいたタバコは燃え尽きていた。吸い殻が投げ捨てられると、テーブルに置いた徹は再度腕を入れ、膝が折れるまでに抱きしめてくる。

「なによ、もう……、窮屈なんだけど」
「しようよ。焦らさないでよ」
「んー……どうしよっかな」

 キスを寸止めされて、いよいよ焦れているのがわかる。母親との電話の仕返しに、わざと素っ気なくすると、いてもたってもいられなくなって唇を近づけてくるが、あと少し顎を突き出せば触れるのに、ギリギリのところで止まる。細めた瞳で見つめると、黒目は逸らされず、ずっとこちらを向き続けていた。

「……よしよし、ちゃんとガマンできるんだね」

 三分以上も待たせてようやく紅美子が唇を吸い始めると、のっけから唾液の絡み合う撥ね音が立った。待ち焦がれた徹の口内が潤っていたのは当然だが、紅美子もまた、顎の根が甘痛く滲みた。舌先が触れ合うたび、徹の上躯が小さく跳ねている。面白く、心地よく、何度もしていたくなる、が……、

「──つっても、長いっ」

 一度引き離れるも、すぐさま追いかけてきて、唇を押し付けられる。もうっ、と、眉間を寄せて呆れた溜息を漏らしたが、両腕を首に巡らせた。唇を外したのは、息苦しかったからではなかった。こちらも鼻声が漏れてしまいそうで、易々と聞かせてやるのは癪で、押し殺そうとするとよけいに口内が滲みてくるからで──ということは、また続けていると危なくなってくるから、今度は唇をずらし、耳へと沿わせた。
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