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爛れる月面
第2章 湿りの海
「このっ──」

 直情的に大声を出そうと息を吸い込んだところへ、空いた手のひらで口を塞がれた。脳裏に昨晩の姦虐の記憶が蘇り、手の中でくぐもった悲鳴を漏らした。

「短絡的な女だ。今ここで騒ぎを起こして何になる」
 井上の眼の焔は、更に勢いを増していた。「大声を出したら会社の人間が来る。女子トイレにいることには驚くだろうが、まずはこう聞くだろ、『井上さん何しに来たんですか?』ってな。昨日の大歓迎ぶりから言って間違いない」

 井上の言葉に、呻きを止める。

「僕は呼ばれたから、ここに来たんだ。携帯に着信があったからね。何故、僕と君が知り合ってるかは……以下同文だ」
 顔の半分を隠されて、怨嗟がより強調されている紅美子の瞳をものともせず、井上は続けた。「君に訴えられて僕は捕まるかもしれない。でも彼氏くんが昨日の事実を知って、その先、君たちはやっていけるのか?」

 言われた意味を紅美子が咀嚼し終えるのを待ち、井上は口から手を離した。当然、狂ってしまいそうな憤怒に脳髄を灼く紅美子だったが、

「そんなので、……どうにかなんか、なるわけない、から」

 それでも、声を張らず、濁った声音のままだった。
 
「二十年の自信ってやつか? 『そんなの』で済むなら、そうしたらいい、って言ってるじゃないか。そもそも、電話をしてきたのは、君のほうが僕に用があるからだろ?」

 紅美子は井上を睨み返したまま、しばらく押し黙った。大声を出す前に、警察に突き出す前に、やらなければならないことがある。

「……指輪、返して」

 体を壁に押さえつけられられ、身勝手なことばかり言われた屈辱を押さえ込んで搾り出したが、それでも、言い終えた後の奥歯は砕けそうなほど軋んだ。

「用件はそれか」

 つまらなそうに鼻息を吐く井上へ、

「返して」

 重ねて告げる。
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