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海に映る月の道 〜last tango in Paris〜
第5章 従者と執事見習い〜従者の恋〜
…やがて伯爵は礼也とともに、玄関ホールの中央に向かって歩き出した。

ホールに集まっていた来客たちは伯爵に気づき、色めき立つ。
…帰国中の北白川貴顕に会えることは、彼らにとっても僥倖に近い出来事だからだ。

名門・北白川伯爵家の当主、北白川貴顕は上流階級きっての人気者であり、誰もが彼と親しくなりたがっていた。
それは彼が大貴族と言うことだけではなかった。
…すらりとした均整の取れた長躯、日本人離れした端正な美貌は、マダムたちだけでなくうら若い令嬢たちも夢中にさせていた。
外国暮らしの長い彼は、ゆうに5ヶ国語を操り、女性をスマートにエスコートすることにも長けていた。
容姿、地位、名誉、人徳、知性、教養、巧みなユーモア…時には世の紳士が嗜む遊び心も…。
世の男性が欲してやまないもの全てを自然に得ているひとなのだ。

妻に先立たれ、独身を貫いているが、色っぽい噂には事欠かない。
常に美しい女性たちに取り巻かれているが、誰が本命かは謎だった。
夫人たちはやっきになって彼と近づきたがった。
色恋のためではなく、自分の娘を北白川伯爵に嫁がせたいと願う貴婦人は多かった。
伯爵には若い令嬢との結婚話が降るようにあると言う。
けれど、彼には全く結婚の意思はなかった。
『私の妻は、梨央の母親だけなのです』
そう穏やかに微笑み、断るのが常だった。

…そんなに愛していたのかな…。
華やかなアフタヌーンドレスを纏った夫人や令嬢たちに囲まれた伯爵を見ながら狭霧はぼんやりと考える。

狭霧は麻布の屋敷の壁に飾られた梨央の母親…伯爵の亡くなった妻の写真や肖像画を思い出す。
…まるで少女のように華奢で儚げな美しいひとだった。
さぞかし似合いの夫婦だったろう…。
それは容易に想像できた。

…けれど、伯爵の口からは、彼女の話が語られることはなかった。

…どんなひとだったのかな…。
凄く、愛し合っていたのかな…。

だが我に帰り、頭を振る。
…そんなこと、俺には関係ないじゃないか…。

そろそろ、従者の控室に移ろうと、踵を返したとき…。

玄関ホールに足を踏み入れたひとりの夫人が、狭霧の貌を見るなり絶句し…やがて震える声で叫んだ。
「…なぜ…なぜあなたがここにいるの⁈」

狭霧もまた夫人を見て、息を呑んだ。

「…山科…子爵夫人…」

…和彦の母親…山科醇子、そのひとが目の前に現れたのだ。

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