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海に映る月の道 〜last tango in Paris〜
第5章 従者と執事見習い〜従者の恋〜
「…飲みなさい。
甘いものは、哀しい心を癒す」
伯爵が運ばれて来たショコラを手づから狭霧に差し出した。
「春さんのショコラは、パリのパティシエに勝るとも劣らない絶品だよ」
「…存じております。
旦那様」

…春さんというのは、この屋敷の料理長だ。
大福のようにふっくらとした丸顔の陽気な人の良い料理人で、使用人たちの母親のような存在らしく、大層人気があった。

春は初対面した狭霧を見るなり、眼を丸くして驚いた。
『あんれまあ!
…なんて綺麗なお兄さんだろうねえ。
従者は決して雇わなかった旦那様の気も変わる筈だわ。
しかし、パリに住んでると、みんなあんたや旦那様みたいに綺麗になるんかねえ。
…まあ、いいわ。
私のチキンパイをお食べ。
これを食べたら、絶対にパリに帰りたくなくなるからね』
そう言いながら、悪戯っぽく目配せをした。

…パリの屋敷の料理長のアンヌさんも、陽気で親切だったっけ。
料理長はみんな、似ているのかな…。
そう思ったものだ。

…その春手作りの温かいショコラを一口飲む。

甘いチョコレートが口一杯に広がり、張り詰め悴んでいた心が一気に解けてゆく。

ソファーに座る狭霧の隣に、伯爵がゆったりと腰を下ろす。
…ふわりと、華麗な夜間飛行が空気を揺らした。

「…大丈夫か?
少しは落ち着いたかな?」
優しい声…。
仰ぎ見ると、端正な眼差しが気遣わしげに狭霧を見つめていた。 
狭霧を真剣に案じている表情だ。
…自分にそんな価値などないのに…。
狭霧は居た堪れなくなる。

やがて、帰りの車中でずっと考えていたことを伝えるべく、狭霧は口唇を開いた。

「…旦那様。
お願いがあります」
伯爵が真摯な眼差しで頷く。
「何だね?」

…深呼吸し、勇気を振り絞るように告げる。

「…私を、解雇して下さい。旦那様」






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