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海に映る月の道 〜last tango in Paris〜
第1章 出会い
…夢うつつの耳に、遠くから重厚な車のエンジン音が聞こえた。
薄目を開けると、車のライトが酷く眩しい…。
その先には夜目にもぴかぴかに磨き上げられたロールスロイスが近づいてくるのが分かった。
…轢かれて死ぬのは、痛そうだな…。
まだ意識がある。
でも、身体を起こすのはめんどくさい。
身も心も疲弊し切っていて、狭霧は指一本動かす気になれなかった。
…もう、どうでもいい…。
狭霧は再び眼を閉じた。
ロールスロイスは、狭霧の身体の数メートル先で静かに止まった。
車内からフランス語で何やら会話が聞こえる。
…ややもして、車のドアが開く音と共に、石畳みを踏みしめる端正な靴音がゆっくりと近づいてきた。
靴音はやがて、狭霧の横でぴたりと止まった。
「…monsieur?
Est-ce que ça va ?” 」
…流暢なフランス語だ。
大丈夫ですか?と尋ねてきたのだ。
ロールスロイスに乗っているのなんて金持ちに決まっている。
ちょっとだけ親切な人なのだろう。
狭霧は返事をするのも億劫で、ただ声のする方に貌を傾けた。
…すると、その人物がゆっくりと動く気配がした。
「…もしかして、日本の方かな?」
…フランス語以上に流暢な…いや、母国語の日本語が聞こえ、狭霧は驚いて瞼を開いた。
…そうして、そこに佇み、狭霧を覗き込んでいる人物に眼を見張った。
…上質な黒燕尾服、その上に羽織っている黒いマントも極上品だ。
すらりとした長躯の身体は引き締まり、欧州人と並んでも遜色がないほどだ。
…何よりも…
ガス灯の淡い琥珀色に照らされた端正な貌に、狭霧は思わず見惚れた。
極上の彫像のように彫りの深い美しい貌をしていたのだ。
歳の頃は三十代半ば…くらいだろうか。
美しいだけでなく、その男が纏う雰囲気は、高貴そのものだった。
東洋人離れした美貌と犯し難い気品と…明らかな聡明さが見て取れる澄んだ眼差しをしていた。
狭霧は血の気の失せた口唇を開く。
「…あんたも…日本人か…?」
男は美しい瞳を細めた。
…そうして…
「いかにも。私も日本人だよ。
…こんなところで我が同胞と巡り会うとはね。
パリの夜はこれだから面白い」
如何にも愉快そうに朗らかに笑ったのだ。