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海に映る月の道 〜last tango in Paris〜
第3章 新たなる道の前で
狭霧は涙に濡れた貌を上げる。
男の黒い双眸が、狭霧を優しく見つめていた。
「…私が彼なら、そう思う。
こんなにも美しいひとと愛の日々を過ごせた…。
愛し、愛された…。
不幸なわけがない」

「…でも…」
狭霧は声を詰まらせる。
「…こんなに早く死んでしまうなら、もっと早く愛しているって言ってやれば良かった…。勿体つけないで…。
愛していたのに…。誰よりも愛していたのに…!
俺は和彦の愛に甘えていたんだ。
愛されて、当たり前だったから…。
…それから…さな絵さんにも…」

横浜港、別れ間際…。
初めて狭霧は「お母さん」と言った。
その時の嬉しそうなさな絵の面影が胸に浮かぶ。
『…お母さん…て言ってくださるの…?』
泣き笑いの表情で涙を拭っていた。

「もっと早くお母さんと呼んであげたら良かった…!
本当はあのひとのことを別に嫌いじゃなかった。
ユキみたいに可愛い弟を産んでくれて…。
不良の俺の世話を焼いて、心配して、すごくいい母親だったんだ。
…だけど…彼女をお母さん…と呼んだら…俺の母親の存在がこの世から消えてしまうような気がして…寂しくて…。
…そんな子どもじみた感情から、お母さんと呼んでやれなかった…。
優しくもしてやれなかった…。
あのひとは…俺にずっと優しかったのに…!」
過去の自分を悔いる。
さな絵は、俺のせいで亡くなってしまった…。

伯爵は静かに口を開いた。
「ひとには運命というものがある。
さな絵さんはさな絵さんの運命を全うしたのだよ。
それを不幸と決めつける方が不遜だ。
彼女は君を…そして家族を精一杯愛し、生きたのだ。
後悔ではなく、感謝の祈りを捧げるべきだ」

狭霧はまじまじと男の貌を見つめた。
「…あんた…なんでそんなに…」
「…君の気持ちが分かるか…と?
…そうだな…。
私にも、深い悔いが残る愛おしいひとがいたから…かな…」
北白川伯爵の眼差しに憂愁の色が宿る。
しかし、やがてそれは温かな優しい眼差しに取って代わられた。
伯爵は、狭霧の涙を絹の手巾でそっと拭う。
しなやかな長い指が、慰めを与えるように白い頬を撫でる。

「…泣きたいだけ泣きなさい。
そして、そのあとには前を向くのだ。
…君の恋人が残した言葉通りにね…」

狭霧は大きな瞳を見張り…やがて堰を切ったように、何もかも解き放たれて、声を放って泣き続けたのだ。




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