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鬼の哭く沼
第6章 朔月に濡れる赤
「あ、あぁ…ゆる、許して…お許しを……っ」
ゆらり、大蛇がもたげた鎌首を貴蝶に向ける。ガタガタと震え、美しい顔を歪めて青褪めた唇を戦慄かせる姿に先程までの余裕は欠片も見当たらない。
どうか、どうかお許しを。そう命乞いを繰り返すも大蛇から漂う尋常で無い怒気は僅かも薄れる事無く、ゆっくりと巨大な顎が開かれる。女の腕一本はあろうかという、大きく鋭い毒牙が獲物である貴蝶を捕えようと狙いを定めてひたりと止まった。
「…理を破るつもりか。愚か者めが」
吐き捨てるように。憐れむように九繰がぽつりと呟いた。初めから結果を知っていて、けれど止めようとは思わない、傍観者の声音だ。香夜にはその言葉の意味も九繰の温度の低い視線の意味も理解出来ないが、一つだけ分かる事がある。
(駄目だ。このまま貴蝶を殺させては駄目だ)
だって、あの女(ひと)は。
ただ、須王を愛していただけなのだから。
自分にされた酷い仕打ちへの恐怖も、怒りも消える事は無いけれど。分かるから。自分だけを見て欲しい、愛して欲しいと願いその為に手段を選ばなかったその気持ちは理解できるから。愛した相手へのひたむきな気持ちまで、否定するように殺してしまうのだけはやめて欲しい。無かった事に、しないで。
憐れむわけじゃない。許すつもりも無い。それでも。
(お願いだから、そのひとを殺さないで)
殺してしまったら、きっと壊れてしまうものは一人分の命だけでは無い―――
そんな気がした。だから香夜は声を上げた。大蛇に向かって。
殺さないで。
「お願い……須王…っ!!」
大蛇の動きが止まった。今にも貴蝶の首を落とさんと迫った毒牙がぴたりと凍りついたように動かなくなる。隣ではっと息を飲み、香夜を凝視する九繰も愕然と言葉を失っている。次いで、何とも不思議な表情を浮かべて笑った。笑うしかない、とでもいうように。
しかしそんな九繰の百面相にも気付けない程、名を呼んだ本人が一番驚いていた。
(どうして今、私…あの蛇を須王だって…)
何も考えずに口をついて出たのが、須王の名前だった。彼の鬼とは似ても似つかない大蛇相手に、一体どうして。