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鬼の哭く沼
第6章 朔月に濡れる赤
「あ…あり、がとう…く、くり……」
「いや、礼には及ばぬ。迎えが遅れてすまなんだな。青火がことごとく使いものにならぬよう、小賢しくも細工されておってのう」
気付くのが遅うなった。そう言って、眉を少しだけ下げて薄い金色の目を細め、香夜の頭を撫でる。温かい掌の感触。手首に結った銀の蝶を香夜は無意識にぎゅっと強く握った。ちりり、と鳴る澄んだ鈴の音。
――― ああ、悪夢は終わった。
助かったのだ。もう、これで大丈夫。ぎこちないながらも笑みを浮かべ、もう一度ありがとうと礼を言うと九繰もほっと息を吐いた。そしてまだ小刻みに震える香夜の身体を抱こうと手を伸ばし、少しの逡巡の後、身体に触れる事無く静かにそっと手を引いた。
和らぎかけた空気を裂くように、ひいっと引き攣った女の声が上がる。へたりと壁に凭れて床に座り込み、がたがたと震える貴蝶の悲鳴だ。一点を見つめ化け物、と戦慄く唇が言葉を紡ぐ。香夜もその視線を追って、九繰の身体の向こう側、部屋の中心にある小山を見つめた。
小山の正体は先程、戸口を壁ごと壊し飛び込んできた影だ。狭い部屋の中、黒々とした影は大部分の面積を独り占めしてしまう程大きい。香夜と、貴蝶と、九繰。それぞれ色の違う三人の視線を浴びながら巨大な影はゆっくりと鎌首を持ち上げ始める。
しゅうう、という空気の漏れるような音と共に、真っ赤な細長い舌が閃めいた。先の衝撃でも消えなかった残りの蝋燭の火をぎらりと反射する目には、冷血動物特有の温度を感じさせない細い瞳孔。見事なとぐろを巻く身体の表面をてらてらと光る鱗がびっしりと覆い、頭部には捩れた鋭い角が一対。
それは、胴回りが大人の男の一抱えはありそうな角持つ大蛇だった。
(嘘、でしょう…)
本能的な恐怖に身を竦ませ凍りつく。大蛇は鋭い牙の覗く口に赤黒い液体に染まった何かを咥えていた。ぼたぼたと滴る暗い色の液体が香夜の投げ出した足先の畳に小さな水溜まりを作る。慌てて弾かれたように足を引いた。
ぶん、と頭を一振り。その何か、は大蛇の口から離れへたりこむ貴蝶の前へどちゃりと重く湿った音を立てて転がる。一拍置いて再び上がる貴蝶の悲鳴。
それは潰れ、血に塗れただの肉の塊となった玃猿の首だった。