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鬼の哭く沼
第2章 宵ヶ沼
「付け上がるな。お前は無力なただの人間だ。何の力も無い…こんな細い首なぞ、一瞬で引き千切ってやれる」
ぎりり、と尖った爪が皮膚に食い込み鋭い痛みを生じる。皮膚が裂けたのだろう、生温かな液体が首筋を伝って垂れていく。
ぴくり。
酒呑童子の手が動きを止めた。驚いたように鋭い目が見開かれる。
その些細な変化はしかし、目を閉じただただ酸素を求め喘ぐ香夜には気づかれない。
「…………」
「かっ…は、あ…」
このままここで死んでしまうのかもしれない。
こわい。つらい。くるしい。誰か助けて。
(誰か)
どうして私がこんな目に。
香夜の血の気の失せた唇から絶望を孕んだ悲痛な呻き声が漏れる。その声を聞いてか、ほんの僅かに指の力が緩められた。意識が混濁し始め、今にも落ちそうになっていた香夜はひゅう、と咽を鳴らして必死に酸素をとり入れようとする。
「存外、俺は良い拾いものをしたのかもしれん」
どういう、意味。
問う言葉は声にならない。くつりと笑い、酒呑童子は香夜の震える咽元に顔を寄せて湿った舌を這わせた。
鎖骨辺りから首筋の上へ…先程酒呑童子の爪で傷付き、垂れた血を拭うように舐め取っていく。
その表情は怒りから一転、恍惚の光を帯びた眼差しを香夜に向けていた。
「………はっ…」
「うぅ……」
ちゅ、と湿った音を立てて傷口を吸い上げ、顔を上げる。じっと、苦しみ喘ぐ香夜を見つめてふと唇を歪めた。
「……お前の血肉は芳しい妙なる香を放つ…裂いて喰らえばどんな味がする事やら」
にやりと笑って低く囁き、乱暴に手を離す。ようやく自由になった身体を折って激しく咳き込む香夜を見下ろし、赤い舌でぺろりと唇を舐める。
「壊れるまでは店に並べて客を取らせようと思ったが…気が変わった。他の男にくれてやるには惜しい」
肉食獣の目が、ぎらりと灯を映してきらめく。
「ここは何処だ、とお前は問うたな。ここは九泉楼、妖の為の遊郭だ。歓迎しよう、人間の娘。お前は今から俺のものだ」
遊郭。俺のもの。言葉が意味を持って胸に落ちるまで、少し時間がかかった。
「お前に二つ、選択肢をやる。その身を裂かれ喰われて死ぬか…イロになって俺を楽しませるか。どちらか好きな方を選べ」