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鬼の哭く沼
第3章 九泉楼
「これはこれは…暫く見ぬ内に随分と男っぷりが上がった事よのう、鬼の」
さも驚いた、と言わんばかりの声音に須王の眉間に深い皺が寄る。その様子につと笑い、男は朱色の雅な酒杯を傾けた。
九泉楼最上階の露台。
月夜を縫って、下階からは賑やかな笑い声と琴の音が聞えてくる。暗く地に沈んだ建物は影となり、軒先に連なる提灯の赤がずらりとその縁を彩る。どこからともなく聞えてくる「きやせやーい、きやせよーい」という呼び込みの声。それに時折、甘やかな女の嬌声が交じる。夜の街の、美しくも毒々しい光景だ。
それらを一望出来るこの部屋は、普段は最高位の花魁と特別な客が一夜限りの恋愛を交わし合う場所だ。だが、今ここに花魁の姿は無い。代わりに、開け放した障子の向こうで露台に一人、男が居る。
室内の明りに照らされ、その息を飲む程に美しい顔を晒したのは旧い腐れ縁の相手だ。手摺りに肘をかけ、手酌で酒を仰ぐ。男の視線の先、仏頂面でそれを睥睨する須王の右頬にはきっかり四本、見事な引っ掻き傷があった。
「ふふ、また見事に施されたものよ。我らが妖の主殿らしくもない」
「黙れ、九繰。それ以上何か喋ればここから叩き出す」
どかりと床に敷かれた錦に腰を降ろし、憤然と睨み上げる須王の脅しもこの目の前の男には効果など無く。夜風に遊ばれる銀糸の髪を掻き上げてにっこりと笑った。
「旧い旧い友人に叩き出す、とはつれない男だの」
「煩い黙れ。誰が友人だ。お前を友と思った事など一度も無いわ。ついでに今後一切、呼ぶ予定も無い。第一、遊郭で女も買わず酒だけ飲むような輩は客ですら無い。うちは飲み屋じゃ無いんだ、今すぐ帰れ」
「儂を呼んだのはお主じゃないか。まったく悲しいのう…友との逢瀬を楽しもうともせぬ。そんな朴念仁じゃから、閨で女子に頬など引っ掻かれるのじゃ」
ぐ、と須王は言葉に詰まる。昔から口でこの男に勝てた試しが無い。
「しかしお主に爪を立てるとはかなりの傑物。どのような女子か、一目会いたいものよ」
「ふん、大した器量もない…花として棚に並べる価値すら無い小娘だ」
「ほう?では店には出さんのか…そんな女子をお主はイロにしたのか」
「…何故貴様がそれを知っている」
須王は怪訝な顔で酒に伸ばしかけていた手をぴたりと止める。香夜の事はまだ誰にも知られていない筈だが。