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鬼の哭く沼
第3章 九泉楼
「なに、年寄りの耳は地獄耳でのう。とくに、お主に関する事はよく聞こえおる」
「この化け狐め…」
不貞腐れたように今度こそ徳利に手を出し、そのまま豪快に飲み干す。一々目くじらを立てていても仕方ない。腹を立てた方の負けだ。
「して、味の方はどうじゃった。首尾良う手篭めにしたのであろう?」
「お前に関係無い」
「つれない事を申すな。百戦錬磨の酒呑童子ともあろう者が、小娘一人に引っ掻き傷までつけられて花の一つや二つ奪ってないなどそんな……」
「…………」
「…………お主、まさか」
九繰の声が色を変え途切れる。須王は答えない。
これでもかと言わんばかりの渋面が、答えだった。
「………笑うなら笑え、九繰。目障りだ」
顔を背け、丸まった背中が小刻みに震えている。しかも時折「くっ」とか「ぷふっ」という声まで聞こえてくる。そんな様子に早々と我慢の限界を迎えた須王が、ぶんっと手の中の徳利を投げつけた。相当な勢いで飛んで行ったそれは見もせずにひょいとかわされ、手摺りの向こうの夜闇へと消え落ちていく。
「っ、は…くく…何とおかしい…。酒呑童子が女も喰らわず傷ものにされるなどと…く、はは…腹が痛い…!」
「笑うな。誰が傷ものだ、誰が。仕方が無かろう、気をやったままの女を抱いたとて何になる」
笑え、と言った癖に理不尽な言葉を口にする須王に、九繰はさらに腹を抱える。
いざ、腰を進めようとした瞬間、縋る様に伸ばされた手が須王の頬に爪を立てた。予想外の反応に一瞬動きを止めた、その些細な間に香夜は意識を飛ばしてしまったのだ。
中途半端なまま放置された、あの生殺し感といったらなかった。
鼻を鳴らして苦々しく言い繕えば、九繰の吹き出す声が聞えて眉間の皺がより深くなる。
いつも優美・悠然を気取るこの男がここまで笑い転げるのは珍しい。だが、珍しいからと言ってそれを甘受してやる心の広さなぞ、須王は持ち合わせてなどいない。
今度はまだ中身の入っている二本目の徳利を投げつける。身体を折って未だひくひくと震えて笑いながら九繰はそれも軽々と避けた。