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鬼の哭く沼
第5章 忍び寄る影
幽世に落ち、池の淵に伏した香夜をこの部屋へ運んだあの日。
久方振りに見る人間の娘の肉と血の匂いに酔って頬を撫で…この笑みを見て手を離した。暖かい掌に、慈しみを持って頬を撫でられる事に慣れた者の笑み。眩しくて、忌々しい。
(一体、誰を思って笑う?)
その笑みは、香夜が起きて居る時には須王が見る事の無いものだ。現世の家族か、友人か…はたまた恋人を思ってか。例え夢の中と言えど、自分以外を思って微笑む様が酷く腹立たしい。
香夜は時折、眠りながら家族を呼んで涙を流す事がある。起きれば忘れるのか、それとも弱った姿を見せたくないのか…家に帰りたいと須王の目の前で泣いたのは最初の夜、一日限り。それ以来起きている間は口にもしなくなった。けれど夢の中では別のようで、幾度となく家族を呼んで泣く姿を見た。
「オオノ」と訴えるように呟く姿も。
気になって夜をここで過ごすようになって、それが癖になってしまった。本来は須王にもきちんとした自室がある。香夜に与えた部屋よりも広く、褥だって大きい。そちらで休めばもっとゆっくりと身体だって伸ばせる。が、それでもこの狭い場所で香夜を抱いて眠る方を選んでしまう。
頬を覆う須王の掌が気持ち良いのか、眠ったまま顔を擦り付ける仕草をする香夜に複雑そうに顔をしかめる。この娘が夢の中で甘える相手は、一体誰だ。少なくとも自分では無い事を自覚しているからこそ、それが何だか気に食わなくてやっぱり頬を抓んでやる。むぐ、と間抜けな声がして、幸せそうだった香夜の眉間に皺が寄った。不服そうなその子供っぽい生意気な表情に、思わずくすりと笑みが漏れた。
まったく、不思議な娘だと思う。見ていて飽きない。
女に成りきらない、しかし少女と呼ぶ程幼くもない。男を知らぬまっさらな身体と心。ただ、それだけだ。貴蝶のように妖しい美しさも、女としての手練手管も床技も何も無い。鬼を酔わす甘い香りを放つ故、手元に置いて飼おうと思っただけの筈だった。初々しい反応をする、珍しい猫を拾ったのだ、と。
だが実際はどうだ。
無力な小娘かと思いきや自分には引っ掻くわ噛みつくわ、挙句貴蝶には喧嘩を売る。とんだ野良猫だ。しかもそれが飽きない。
須王はどんな名妓でも飽きれば二度と抱かない。貴蝶がそうだったように。だというのに香夜には何度でも手を出したくなる。