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鬼の哭く沼
第5章 忍び寄る影
「絵描きとは楽しそうじゃの」
騒がしい二人を余所に、暢気に香夜の隣に腰を降ろした九繰が手元を覗き込む。料紙を滑る筆を眺め、顎を摩りながら頷いた。
「うむ。見事な豚の絵じゃ」
「…………猫、描いてるんだけど」
絵が下手で悪かったわね、とむくれつつ「豚」評価をされた猫の顔に髭を描き加える。脇から覗き込んでいた風花が「豚におひげー」と無邪気にはしゃいだ。がっかりだ。
「…須王は何であんなに機嫌が悪いわけ」
普段から仏頂面が多いのだが、今日は更に輪をかけて不機嫌そうだ。筆を置いてちらり、と未だ蛙に制裁を加える須王に視線を流す。九繰は肩を竦めた。
「今夜は朔の日じゃからな」
「さく……?」
「いや、こちらの話じゃ」
小さな呟きを拾えば曖昧に笑って誤魔化し、香夜の頬に指を伸ばした。
「痛々しい傷じゃのう。これを見てはアレも不機嫌にもなろうというもの。お気に入りが傷物になった理由を、蛙のが作ったようなものじゃからのう」
「お気に入りって…」
傷物も何も頬の傷は自分の播いた種だ。貴蝶に反発しなければ負わずに済んだ傷であるし、それ以前に「傷」という程のものでもない。あまりに大袈裟ではないだろうか。
口ごもる香夜を九繰が面白そうに見下ろし、そっと耳元へ顔を寄せる。白い指先が、ちりん、と蝶の鈴飾りを突いた。
「お気に入りに違いなかろう。これがその証拠じゃ。随分と首尾良う進んでおるようで安心したわ。この分ならばお主が上に帰れる日も近いやもしれんのう」
須王に見つからないよう、素早く離れていった九繰の言葉に何も返せずに俯く。隣で悠然と微笑む狐と交わした賭けを思えば、確かにこの飾りは良い「成果」であるに違いない。
これを贈られた日から、必ず身につけるよう言われ素直に首から下げている。須王と同じ響きの名を持つ色の紐で結われた、美しい首飾り。
「……何じゃ、あまり嬉しそうには見えんの。帰る気が失せたか?」
「そ…んなわけじゃ…ないけど」
「ふむ…香夜、お主よもや須王に懸想したか」
「まさか!」
否定しながらも、香夜はどきりとした。ただ憎いだけの相手では無くなっている事を、自分が一番良く知っている。意味深な視線を向けてくる九繰から顔を背け、思い出す。