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鬼の哭く沼
第5章 忍び寄る影
力で男の、しかも鬼に敵う筈も無く。抵抗空しく頬を隠す手を退かされ、羽交い締めにされて傷に軟膏を塗り付けられる。ぐりぐりと強く指先を押し付けられて少し痛い。だがそれよりも、ひんやりとした薬が皮膚につくと香夜は真っ青になった。
「いやーっ!!蛙になる…!!」
叫んで、着物の袖で頬をごしごしと拭う。そんな香夜の反応に「は?」という間の抜けた顔で須王の手が止まる。そして即座に傍らで腹を抱えて静かに肩を震わす九繰へと振り返った。
「貴様…この馬鹿に何を吹き込んだ」
「……くっ…は、ははっ!!まさか本当に信じようとは、何と愛らしい。まったくからかい甲斐のある娘よの」
「っ!!ちょ、何笑って…まさか今の嘘なの!?」
ごしごしと頬を擦っていた手を止めてくわっと噛みつく香夜に、九繰は盛大に吹き出す。腹を抱え畳を叩く姿は、完全に遊んでいるとしか思えない。とんだ性悪狐だ。きっと睨みつけるとまだ笑いの余韻を残したままごそごそと懐を探った。
「ふ、くく…冗談じゃ、冗談。お主は本当に素直じゃのう。蝦蟇の油は傷薬じゃ。蝦蟇の身体から絞ったわけでも無い。切り傷、打ち身によく効く軟膏でな。その頬の傷程度、一塗りすれば痕も残らん」
どれ、自分の目で見てみるが良いじゃろ。そう言って取り出した手鏡を差し出され、未だじとりと睨みつつ受け取り頬を確認する。強く袖で擦った右頬は赤くなってはいるが、そこにあった筈の引っ掻き傷は見当たらない。まるで初めから傷などなかったかのようだ。
「すごい……」
素直に感嘆の声を上げると、九繰は笑って部屋の隅を差した。
「世には効能など似ても似つかぬ贋物が横行しておるが、本物の蝦蟇の油は即効性が高くて効果は抜群じゃからのう」
精製方法は「蝦蟇」しか知らず希少、その分高値で手にも入れ難い。そう言われて差された方角、部屋の隅で縮こまっている蛙を見る。着物がよれよれなのは須王の暴挙故だ。何だか申し訳なくなってぺこりと小さく会釈する。力無く水掻きの付いた手が揺れたのは返事だろうか。
「礼ならばお主の隣にいる鬼のに言うが良い。お主の為に界隈を巡ってガマ福の泊まる宿を探し、薬を締め上げに行ったようじゃからの」
「ば…いらぬ事を言うな九繰!」
「…須王が……?」