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鬼の哭く沼
第5章 忍び寄る影
近い。とにかく近い。長い睫毛や色気を含んだ銀の瞳にじっと見つめられ、どきどきと心臓が跳ね上がる音がする。
「……な…に…っ」
「…ふ、そう警戒するでない。愛い奴じゃの」
さらに耳朶に唇が触れる程顔を寄せ、香夜にしか聞こえない大きさで囁く。
なあに、これは儂からのちょっとした餞別じゃ。
密やかな、甘い吐息混じりの低い声。ぞわりと左耳から背筋へと何かが走り、真っ赤な顔で弾かれたように耳を手で押さえた。
そんな香夜の様子にニタリ、と口の端を歪めて笑い、すぐさま九繰は身を引いて離れていく。離れ際に驚いて固まったままの香夜の肩から、そっと長い指で何かを抓んだ。ごく小さな、白い欠片だ。
「湯呑の破片じゃな。先程、飛んだのであろう」
「あ……ああ、欠片…そっか、欠片ね。えっと、ありがとう…」
細い銀の瞳を糸のように細めて笑い、欠片を盆に戻す。動揺が抜けきれず、落ち着かなげにそわそわと畳の目に視線を落とす香夜は、九繰がちらりと須王を見て勝ち誇ったような笑みを浮かべた事に気がつかない。
(何…餞別って何?!)
なまじ顔が良いと質が悪い。にやにやと香夜を見て笑う九繰は、明らかに反応を面白がっているとしか思えない。
からかわれただけと知っていても尚、至近距離で人外の美しい男に見つめられれば動揺もするというもの。何だかむず痒い気のする左耳をごしごしと擦れば「その反応は酷いのう、流石の儂も傷つくんじゃが」と全く傷ついていなさそうな声音で言われ、きっと睨みつける。悔しいかな未だ鼓動の早い心臓を抑え、腰を上げた。粉末となった哀れな元・湯呑でも片づけて心を鎮めよう。
「箒、箒…っ、わっ…!」
だが唐突に横から腕を掴まれ、強く引かれるままバランスを崩して尻持ちをつく。
「何すん…」
「…………」
倒れ込んだ先は畳では無く須王の膝の上。転んだ衝撃は無いが問題は自分の格好だ。まるで甘え、しなだれかかるような体勢にカッと頬に熱が上がる。
咄嗟にごめんなさい、と謝って離れようとするも腕は掴まれたまま。何故か腰に回された手ががっしりと身体を引き寄せている為、身動きが取れない。
この恥ずかしい体勢から一刻も早く抜け出したいのに。
「あの、…手…」
「…………」