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鬼の哭く沼
第5章 忍び寄る影
揶揄する声にカッと全身が沸騰しそうな程熱くなる。もっと口づけて欲しいと、そう思ってしまった自覚があるからこそ香夜の動揺は激しい。
「まだ薬を用意してやった礼を貰ってなかったからな。こちらから頂いたまでだが…口づけだけでは物足りなかったらしい」
「ば、っかじゃないの…?!」
ぺろりと舌舐めずりする口元に奪われそうになる視線を無理矢理剥がし、傍らのにんまり顔の狐を睨む。
狐の口端がつり上がり、その唇が「仲の良い事よのう」と紡ぐのを見てハッとする。
(何が餞別…!)
先程の言葉の意味がようやく分かった。
須王の悋気を誘って香夜を動揺させた、そのどこが餞別だ。
しかし香夜の怒りも何のその。
性根の曲がった狐ははひょいと片眉を持ち上げるだけで、その様子に隠す気も無い溜め息が口から溢れる。ああ、本当に疲れる…。
九繰のお遊びにいつまでも付き合って、見世物になる気はこれっぽっちも無い。そろそろ身体を離そうと須王を伺えば、頭一つ分以上高い位置から香夜をひたりと見据える鋭い眼差しとかち合ってしまう。
居心地の悪さを感じてもぞもぞと座りの悪い尻を動かすと、ふいに握られたままの手首を持ち上げられた。
「…赤い」
「そりゃあれだけ強く握られたらね…と言うか握った本人がそれ言うの」
「そうだな」
こくんと素直に頷かれて、嫌味の矛先が折れた香夜は眉を寄せる。
(何か…調子狂う)
普段の横柄で傲慢な鬼はどこへ行った。まるで子供だ。不審に思うと同時に心配になる。機嫌が悪かったり、笑ったり、急に大人しくなったり…酷く不安定なのだ。
今日はどうにも様子がおかしい。手首の痕一つに罪悪感を感じているわけでもあるまいに、先程から須王の視線は手首から離れない。
「痛むか」
「え、いや……別に痛くはないけど」
そうか、と言ったきり再び黙り込む。まさかこれは本当に、気にしているのだろうか。あの須王が。