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鬼の哭く沼
第5章 忍び寄る影
「…ねえ、これくらいの痕ならすぐに消えるから」
事実手首の赤みは薄れ、殆ど見えなくなっている。だからそんなに気にしなくても。
言いかけた香夜の小さな後頭部ががしりと掴まれた。そして胸元へと強引に引き寄せられる。その勢いのまま、強か鼻を打った。
痛い。硬い胸板に顔面を押し付けられ、くぐもった声で抗議の声を上げようとした香夜は頭上から落ちた小さな呟きを僅か聞き逃した。
「……るな」
「?」
掠れた、聞き逃してしまいそうな程小さな声。
腕を突っ張って離れようと苦心していた香夜は、首を傾げて動きを止める。握られたままの手首が持ち上げられそこへ何かが押し付けられた。暖かな熱がじわりと肌を焼く。
「お前は俺の物だ。勝手にこの身体に傷をつけるな」
囁くような声で、その暖かな熱は押し付けたまま。肌の上の熱が動く度、声に合わせて同じ熱を帯びた息が手首を擽る。
乱れた着物の合わせの隙間、密着した色濃い肌の向こうから聞こえる鼓動が一際高く響くのは香夜自身の心臓もまた同じだからだろうか。
「この肌も、髪も…俺の許可なく、俺以外の何者にも傷つける事は許さない」
そう言って、掴んだ手首に歯を立てた。
一瞬、どきんと胸が跳ねたのは気のせいだ。そうに違いない。
だから頬が熱いのもきっと気のせいだ。
「行くぞ」と蛙を呼び、そのまま足早に退室していった須王の背中を見送る事も出来ない程、胸を打つ鼓動を手で押さえる香夜の傍へそろりと蛙が近寄る。手にした木箱を器用に背負いながら、ぐるりと目玉を動かした。
「あんさん、須王の旦那を好いとるんでっか?」
「ま、まさか!!」
蛙の言葉に、香夜は大きくかぶりを振った。
「ほーう、まあ野暮は言わんどきますがね。せや、一つ占って差し上げましょ。本来なら金貰うとこやけど…あんさんにはようけ儲けさせて貰いましたからなあ。これはあっしからのオマケや」
「え、何…」
「まあまあ黙って聞きなはれや。呉服屋ガマ福の人相占や。本業やないがよう当たるんやで」
でも、と困惑する香夜へ、いつの間にやら取り出した煙管で煙を愉しんでいた九繰が良いではないか、と声をかける。