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鬼の哭く沼
第5章 忍び寄る影
この狐は双子の居る前では決して煙管を吸わない。副流煙による健康被害の認識など希薄そうなこの世界で、妙に律儀な男だ。
「ガマ福が良いと言うのじゃから遠慮せずとも良い。妖どもの間ではよう当たると人気の占いじゃ。一つ、見て貰えば良かろう」
「ほな、早速。ちょいと失礼をば」
香夜の承諾を得ないまま、ぐい、と些か乱暴に顎を掴まれる。両生類特有のぬめりとした肌の感触にざわりと鳥肌が立ったが、お構いなしだ。
無遠慮に香夜の顔を舐めるように眺め、「あんさんの、人生の分岐点で必要な言葉や。よう憶えときなはれ」と何やら物々しげに呟けば。
唐突に、長い舌で顔をぺろり。
「ぎゃあ!!」
ぬるぬるした舌に顔を舐められて、潰れた悲鳴が上がる。
「静かに。これくらいで騒ぎなさんなや」
「これくらいって…うう」
体温の無い湿った舌の感触ときたら、気色悪いとしか言いようが無い。慌てて距離を取り、全身に立った鳥肌に震えながら両腕を手で擦っていれば目の前の蛙は畏まった様子でこほん、と咳払いをした。
「えー…お嬢はん、言葉っちゅうんは難しいもんでっせ」
「……?」
「口数過ぎれば角が立ち、言葉を惜しめば心が残る。言葉はようけ考えて、大切に使わなあかん」
蛙の、ひょうきんな表情には不釣り合いな真剣味を帯びた口調。その調子に釣られて耳を向ければ、大きな目玉がばちりと一つ瞬いた。
「これはあんさんのじいさまばあさまが生まれるずっとずっと前から商いしとったあっしの格言やけど、あんさんにあげましょ」
ぺろり、と自分の顔を一舐めし。
「あんさんの歩む道が、幸多き道となるように」
言う相手も、言われている自分も、今この状況も。全ては幸とやらから遥か遠い場所に居るとしか思えないのに。
何故かその言葉は酷く優しく、香夜の耳から胸へと落ちていった。
じわり、と。
手首に付いた真新しい歯型が熱を帯びて疼く。
それを誤魔化す様に、もう一方の掌で覆い隠す様子を九繰がじっと見つめていた。
「まあ、あんさんが須王の旦那よ仲良うしとってくれたら、あっしが儲かるんでね。そこんとこ、よろしゅう頼んますー」
流石は商売人。
商魂逞しくも、最後にそう締め括った蝦蟇蛙のガマ福は「げこここ」と笑い声だか鳴き声だかわからない声を上げ、ひょこひょこ去っていったのであった。