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鬼の哭く沼
第5章 忍び寄る影
(ああ、本当に困ったな…)
じわり、と手首に付けられた歯型がまた疼いた気がして、痛むほど強くそこを握った。
九繰と交わした賭けが脳裏に蘇る。
惚れさせたら勝ち、惚れたら………負け。
分かりやすい勝敗のその行方は、自分の心一つだと知っているからこそ。
「はあ…。賭けに負けちゃうのかな…。嫌だな、それは。困る…物凄く、困る…」
「何がそんなに困るの?」
はあー、と肺の空気全てを出し切るかの如く長い長い溜め息を漏らして目を閉じた香夜の耳に、ふいに聞えた声に驚いて手擦りから跳び起きる。
つい今しがたまで誰も居なかった廊下に、男が立っていた。しかも、近い。物凄く距離が近い。顔を覗き込むようにして隣りに立つ男から慌てて距離を取ると、相手は「女の子からのその反応は傷つくなあ」と全く傷ついてなさそうな口調でにっこりと笑う。
随分と華やかな雰囲気の男だ。釣り上がった眉とは対照的に、目尻の下がった眼差しが甘い雰囲気を醸し出している。ふんわりと軽く波打つ黒髪と、僅かに着崩した着物のせいもあるのだろう、至極柔らかな物腰のその男は再度、尋ねた。
「困るって、何が困るんだい?賭け事とは穏やかじゃないね。大きな賭け事でもしてるの?」
「え、いや…はは、まあ」
羨ましい程長い睫毛に縁取られた真っ黒な瞳をじいっと向けられ、苦笑いを浮かべ言葉を濁す。
気配も感じさせず、いつの間にか隣りに居たこの不審者に、つい曖昧にでも答えを返してしまったのはのんびりとした口調の所為か。不思議と聞く者に警戒心を持たせない、甘やかな声だ。香夜の横に並ぶように、手摺りに手を添えて立つ男の身体からは、ふわりと嗅いだ事の無い香りがする。花のような、薬のような、果物のような不思議な香り。並んで分かったが、この男も随分と背が高い。須王とさして変わらないように見えるが、あまり威圧感の様なものは感じられない。
遊郭の客、だろうか。だがここは須王の自室がある離れだ。一般客がこちらに足を向ける事など無いだろう。第一今は正午、遊郭は準備時間だ。一般客はとうに店を追い出されている。では、九繰と同じく須王の知り合いだろうか。角は、無い。尾も…どうやら無いようだ。