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鬼の哭く沼
第5章 忍び寄る影
「初恋は実らない、というのが人間の通例だそうだけど…上手いこと言ったものだよね」
「通例と言うと、なんだか違う気がしますけど」
「そうなの?」
「まあ…初恋が実った人も、中には居るでしょうし。第一、初恋は身近な異性への憧れが多いらしいですよ。憧れを初恋と勘違いしてしまったら、結果として実らない、と思ってしまうだけで」
「ふーん?そんなものかな」
昔何かのドラマで見た、聞きかじりの解釈につまらなそうに相槌を打つ男に、香夜は慌てる。自分のような子どもが、立派な大人の男に言う言葉ではなかったかもしれない。何を偉そうに、と思われただろうか。気分を害してしまったか、と様子を伺うも男は自分も金平糖を口に含み、平然としている。
しばらくかりかりと金平糖を噛み砕いていた男は、ふと思いついたように顔を上げた。
「ああそうだ、雑談ついでに一つ、昔話をしてあげよう」
「昔話?」
「うん。君の言うところの、憧れを恋と勘違いしてしまった男の話」
それは、一人の男の何の事は無い初恋の話だった。
金も、権力もある、何の不自由もない男がある日突然現れた娘に恋をする。初めこそ男の求愛を頑なに拒んでいた娘だが、やがて次第に心を許し二人は結ばれた。暫くして娘は男にあるものを強請った。そのあるものとは、男にとって、それどころか男の収める国にとって大層大切なもので。当然、渡せないと断ると娘は泣いて部屋に閉じこもってしまった。
娘は、自分の国に置いてきた父母に一目会いたい、会う為にそのあるものが必要だと訴える。食事も取らず、憔悴していく娘の姿に耐えかねて男はそのあるものを与えてしまった。与えることが、己の愛の印だと思ったのだ。決して、他者に渡してはならないものだったのに。
娘は喜び、国へ帰った。そして、男を裏切った。国には娘の婚約者がおり、その婚約者のもとへと戻る為の嘘だったのだ。
「初恋は実らない。まったくもってその通りだと思うよ。いや、君いわく憧れ、かな」
挙げ句、大切な物をたくさん失ってしまうなんて全く間抜けな話だよね。
そう、男は誰にともなく言って香夜を見つめる。黒い瞳だ、と思ったその目は、黒というより綺麗な闇色だ。吸い込まれそうな、夜の色。こんな色の石があったな、と頭の片隅で思う。
何という名の石だっただろうか。ああ、思い出せない。