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鬼の哭く沼
第5章 忍び寄る影
ぼんやりとしながら、手摺りから身体を離し正面を向いた男を見て、気づく。
(この人、左腕が……)
優雅にやや着崩した着物の左側、その肩の先から着物の布地が不自然に垂れている。中身が無い事を示すように、まっすぐ下へ。はっと色の変わった香夜の表情から悟ったのだろう、男は笑みを浮かべたまま右手で左袖を捲ってみせた。案の定、二の腕の根元近くからそこに有る筈の腕は無く、盛り上がった肉と、引き攣れたような古い傷痕が痛々しい。
「ごめん、なさい…」
「…君は優しい子だね」
何となく目を逸らしてしまい、口をついて出た謝罪の言葉に男は再びふふ、と笑う。優しくなんてない。他者の、触れられたくないであろう部分に無遠慮に踏み込む様な真似をしてしまったのは自分だ。失った、左腕。たぶん、何となくだけれど…この男の語った昔話の「男」は、きっと。
眉を寄せて俯く香夜の頭に、ぽん、と掌が乗せられる。
「可愛らしい君とずっとおしゃべりしていたいけれど、あまり長居はできないからね」
須王に見つかったら困るんだ。あの子は怒るととても恐いから。
そうおどけたように言うと、男は懐から金平糖の巾着を取り出して香夜の手にやんわりと包ませる。やはり須王の知り合いだったらしい。
「あ、あの……っ」
「きっと、忘れてしまうだろうけれど。君が気に入ったから、僕の名前を教えてあげよう」
顔を上げた香夜の耳朶を掠めるようにして甘やかな声が言う。身を屈めた分近くなった距離に、一層強くなる嗅ぎ慣れない香り。甘い。甘過ぎて、くらり、と脳が痺れるような。
「僕の、名前は……」
蕩けるような笑みを刷いた薄い唇が、ゆっくりと音を紡いだ。
「……様、ねね様!」
はっ、として目の前の、そのやや下へと視線を下げる。全く同じ顔の、それでいてどことなく違う顔が二つ、心配そうに香夜を見上げていた。
「ねね様、どうかなされたの?」
「ご様子、ヘン…からだ、どこか痛い?」