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鬼の哭く沼
第2章 宵ヶ沼

ある。

鬼と言われて日本人が頭に浮かべる、最も有名な名前だ。大江山を根城として京の都を数多の仲間と共に跳梁跋扈し、女子供を攫い、喰らい、悪逆非道の限りを尽くした鬼。そして、かの有名な源頼光と彼の率いる四天王に討伐された。

目の前の男は、それを名乗っている。



いや、そんな馬鹿な。



鬼なんて想像上の産物だ。
存在しない、居る筈が無い。


「俺の言葉が信じられないか」


心を読んだように、男…酒呑童子は笑う。薄い唇の隙間から異様に尖った歯が覗いた。
動揺する香夜の前で、手を伸ばして漆塗りの箱を引き寄せる。そして細長い棒のようなものを取り上げた。煙管だ。その先を行灯の灯心に近付けてゆったりと一呼吸する。

吐き出された紫煙がゆらりと溶け、刻み煙草特有の香りが漂った。


「…まあ、信じようが信じまいが事実だ。お前は上の世で沼に落ちた。そうだな?」


こくん。

混乱したまま頷く。
上の世、というのがどういう意味かは知らないが、沼と聞いてやはりと思った。宵ヶ沼。地元では黄泉ヶ沼と揶揄されるあの沼は幼い頃から近づいてはいけないと何度も大人たちに戒められた場所だ。
鬼が住む沼。近づけば呼ばれ、二度とは戻れぬ……



二度と。



「っ、帰れ、ますか?」

「……何?」


縋る様な声に、煙を楽しんでいた酒呑童子が訝しげに眉を寄せた。


「ここは、どこ…?あの、私…帰りたい、家に帰りたいんです…帰して下さい!」

「無理だな」

「嘘!何か、帰る方法が…」

「嘘をついてどうする。方法など無い。お前が落ちた沼は俺の庭の池に繋がっている。池に浮いているのを拾ってやったのは俺だ。お前は俺の隷属、ここに居るしかない」


それが理だ。そう言って煙管をふかす。


「そんな!!だってここに来たくて来たわけじゃ…」

「くどい、諦めろ。お前は帰れない」


きっぱりと告げられて唇を噛む。はいそうですかと、諦められる筈が無い。こんな訳も分からない場所で、鬼だなんて名乗る男の言葉なんて信じられない。信じたくない。

不安と悔しさで涙が滲む。ぎゅっと布団の布地を握り締めて俯く香夜を、酒呑童子は小馬鹿にしたように笑った。


「いや…帰れるものならば帰ってみろ。ここは現世と常世の狭間。どう足掻いた所でお前ごときが抜け出せる場所では無い」




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