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鬼の哭く沼
第6章 朔月に濡れる赤
狭い部屋だ。壁と、難しい文字の書かれた屏風と、畳に散らばった白い布。それだけ。別段変ったものは何も無い。それから、部屋中に漂う甘ったるい匂い。何処かで嗅いだ事のある匂いだ。何処で嗅いだのだったかと思案する間も無く、どん、と何かにぶつかった。
「いったいなあ、もう…何でこんなとこで立って…」
強打した鼻を押さえ、顔を上げる。文句を言いかけた口が違和感にはたと止まった。何かがおかしい。暗がりに慣れた目が、間近にある須王の背とその上にある顔を捕える。そう、顔、だ。豪奢な着物の、広い背中。その上には無表情に香夜を見下ろす、須王の顔。
あべこべだ。まるで梟のように、顔が、背中側にぐるりと180度回っている。ずりっと後ずさった香夜は混乱する頭ではくはくと唇を動かした。何が、どうして。声にならない声を合図にしたかのように、今度は顔はそのままにぎちぎちぎち、と嫌な音を立てて身体がこちらを向く。生き物らしさを感じさせない、木偶人形のような動きだった。
「香夜。香夜。一緒に来い、来イ…ココダ、香夜。カヨ、カヨ…」
「何、やだっ…やめて黙って!!あ、あなたは……誰」
震える声を咽から絞り出せたのが奇跡に近かった。意味を為さない言葉を繰り返す、能面のように無表情な須王の顔。いや、須王のような顔、だ。ずっと顔も見ずにここまでついて来てしまったが、こうして正面から見てみれば明らかに違うと分かる。鏡に映したように似ているが、全くの別物だ。
誰、という香夜の問いに、須王の姿を真似た何者かは小さく首を傾ける。ぐりん、と左右の目玉がばらばらの方向を向いてひっくり返り、濁った白眼になった。その寒気を催すような光景に、ひくりと咽が鳴った。
「ダレ。俺ハダレ。ダレ、ダレ、ダレ…」
もはや声すら須王のものでは無く、甲高い獣のような耳障りな声に変わっていく。早く、早く、ここから逃げなければ。これが何で、どうしてこうなったかなんて後で良い。ここから逃げなければ、という本能に従って香夜は強張る四肢を懸命に動かして背後の木戸を振り返った。
だがしかし、踏み出した一歩が何かに絡め取られて畳敷きの床へと転んでしまう。見れば、足首に絡みついたのは床に散らばっていた布だ。白く、細長い布がしゅるしゅると音を立てて畳の上を這い、一点を目指して集まってくる。一点、香夜の元だ。