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鬼の哭く沼
第6章 朔月に濡れる赤

「耳障りな声じゃ…今宵こちらの棟には誰も来ぬが、万が一という事もある。そなたは黙ってこやつに犯されておれば良い」


おぞましい笑みを浮かべた猿の化け物がぐいっと香夜の両足の間へと身体を移す。その際垣間見えたのは屹立した化け物の一物。青黒い、太さより長さの目立つ醜悪な欲の塊だった。恐怖に染まる香夜に満足したのか、貴蝶はこの場にそぐわぬ程優しく乱れた香夜の髪を撫でる。首を振り、足を閉じようと必死に布を引くと、優雅に笑って言った。


「無駄じゃ無駄じゃ。そなたに絡みついておるのは只の布ではない。機尋(はたひろ)という妖じゃ。人の力で解けるようなものでは無いわ。それにな、そう暴れずとも良いぞ。心優しいわたくしはそなたの為に媚香を焚いてやったからのう。直に何が何やら分からなくなる故」


口を塞がれた息苦しさに呼吸が乱れ、より一層吸い込んでしまった香が香夜を侵蝕していく。貴蝶の言葉通り、甘ったるい香りは脳の芯を麻痺させて正常な思考を少しずつ奪っていった。それと同時に手足に入れた力も緩み、だらりと床へ投げ出されたまま。
そうだ、この匂いは媚香。遊女が客に使う夜伽の為の香。抵抗したいのに、身体が動かない。ぐう、と唸って悔しさにまた涙が溢れた。意思に反してふわふわと揺れ始めた意識の中で、愉しげに語る貴蝶の声だけがはっきりと耳に届く。


「そなたを組み敷いておるのは玃猿(かくえん)というてな。人の声や姿を真似て里に降り、人間の女を攫う。奴等には雄しか産まれなんだでな。攫った人間の女に子を産ませるのじゃ。頭は悪いが性欲だけは異常に強い。しっかりと孕ませて貰うが良かろう」


猿に穢された女なんぞ、如何にお優しい楼主様とて二度と愛ではすまいよ。


そう勝ち誇ったように嘲笑し、後はもう香夜の痴態を見届けるのみと見物を決め込む。くぐもった呻き声を上げ、渾身の力でがくがくと震える身体をがむしゃらに動かした。ちりり、と右手首に結わえた鈴が鳴る。

須王に贈られた、銀の蝶。眠る際には壊さないよう、首ではなく手首に巻いて結っていた。これを贈った彼の鬼と同じ名を持つ、蘇芳色の組み紐。涙に滲んだ視界でその色だけ鮮やかに感じて、鋭くも真っ直ぐな眼差しを思い香夜はきつく拳を握る。


最後の、場所だけは。そこはまだ須王にも渡していない場所なのに。


すとん、と心のどこかで素直にそう思った。


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