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あの海の果てまでも
第5章 秋桜の涙 〜暁礼也のモノローグ〜
暫くして、衣摺れの音と静かな靴音が遠くから響いてきた。

礼也は椅子から立ち上がる。
婦女子を迎える時は、必ず起立しなければならない。
それが、紳士たるマナーだ。

扉が開かれ、先程の家令の白戸に傅かれるように現れた貴婦人…。

それが、大紋春馬の妻・大紋絢子、そのひとであった。

「…礼也様。ご機嫌よう。
お久しぶりでございます」
淑やかな弱々しい声。

…光沢のあるミルク色のレースのマタニティドレスに象牙色のカシミアのショールを肩から掛けている。
艶やかな長い黒髪は下ろし、菫色のリボンで緩く結ばれているので、人妻というよりはまだ稚い少女のようにも見える。

「絢子さん。
ご無沙汰しております。
突然の訪問をどうかお許し下さい」

頭を下げたのち、改めて絢子を見つめる。

…マタニティドレスの腹部が驚くほどに膨らんでいる。
その華奢な少女のようにか細い体型と不似合いなほどに。

「…もう、臨月でいらっしゃるのですね…」

…知らなかった。

「…ええ…。
来週辺りが予定日です…」
微かに寂しげな微笑みを浮かべ、絢子が小さな声で答えた。

自分の認識の甘さに、礼也は口唇を噛み締める。
間もなく子が産まれようとしているこの何の罪もない淑やかな妻に、春馬は何という苦行を与えたのか。

…いや。
そうではない。
礼也は眼を閉じる。

自分も同罪だ。
暁のことを何も分かっていなかった。
親友と弟の関係に気づきもしなかった自分も、結局は彼女を傷つけていたのだ。

「縣男爵様。
奥様にお座り頂いてもよろしいでしょうか?」
控えめだが凛とした白戸の声が聞こえた。

「ああ、もちろん。
お掛け下さい。
配慮が足らずに申し訳ありません」
「いいえ。礼也様」
絢子は白戸の手を借りながら、長椅子に腰を下ろした。
…ひとつひとつの動作が、ゆっくりとして物憂げだ。
体調も良くないのだろう。
もうすぐ出産を控えているのに、夫は失踪し、自分は社交界の醜聞の渦中にひとり取り残されたのだ…。


礼也は絢子を見つめながら、静かに近づく。
そうして、マナーも体裁も何もかもかなぐり捨てて、絢子の脚元に片膝を着く。

「礼也様…?」

戸惑う絢子の白く小さな手を取り、猛然と詫びる。
「絢子さん。
この度は誠に申し訳ありませんでした。
弟がしでかしたこと。
兄として心より、深くお詫び申し上げます」




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