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あの海の果てまでも
第3章 新月の恋人たち 〜朱浩藍の告白〜
…バルコニーからは、白い円形の中庭が見下ろせた。
周りをぐるりと囲むように咲いているのは、イングリッシュローズだ。
西洋の花に囲まれ、佇んでいると、ここが上海だということが俄かには信じ難いほどだ。

浩藍が住んでいた横浜山手の家もこじんまりとした洋館で、なかなかに洒落た造りだったが、この武康路にある屋敷の広大さ、豪奢さ、格式の高さには比べ物にならないほどだった。
通常、フランス租界に中国人は住めない。
外国人…しかも欧米人の富裕層しか居住権はなかった。
しかし最近になって、この上海経済界で成功が認められた財界人のみにその権利が少しずつ分け与えられ、フランス租界の高級住宅街に屋敷を建てる富裕な中国人が現れ始めたのだ。
…浩藍の父親…朱永明もそのひとりであった。
貿易商として一代で財を成した彼は、今やこの上海の有力な経済人として広く名を馳せていたのだ。

…もっとも、浩藍は生まれてこの方、数えるほどしか父親に会ったことはなかった。
多忙な彼は、浩藍の母親を囲ったものの、その愛人のもとを訪れることは極めて稀であった。

だから、浩藍の母親…菊乃が男と駆け落ちし、浩藍がひとり取り残された時、訪れた父親と対面し妙に居心地が悪かったのを覚えている。

『…浩藍か。
大きくなったな。
歳はいくつだ?』
父親は身体の大きな声の低い男だった。
上質な黒い絹の漢服からは、甘い薫りが微かに漂う。
…恐らくは…上等な阿片だろう。

『…十二歳です。フーチン(お父様)』
乳母に教わった拱手の挨拶をしようとすると、父、永明の節くれ立った指が、浩藍の白く形の良い顎を捕らえた。
永明の糸目の瞳が、驚きに輝いた。
『…菊乃に良く似た綺麗な貌をしている』
永明は小さく笑った。
けれど、その一重の細い眼は少しも笑ってはいなかった。
ぞくりとした瞬間、その乾いたなめし革のような指は離された。

『…明日、浩藍を上海に連れてゆく。
急ぎ支度をしなさい』

浩藍の代わりに、乳母が平伏すように頭を下げた。
『畏まりました。旦那様』

そうして、浩藍の返事を待つことなく、永明は部屋を後にした。
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