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千一夜
第21章 第四夜 線状降水帯 ⑤

伊藤が三十を超えた頃だった。伊藤はスノーボードにはまった。もちろん十年経った今でもシーズンになり、仕事が一段落すると伊藤はスキー場に出かける。行き先は東京から近い福島だったり、新潟だったり、長野だったりする。
数年前、新潟のスキー場に行ったときのことだ。宿で出された日本酒に伊藤の心が震えた。そのとき出された酒は北雪。伊藤はその酒に痺れた。そのときから伊藤は日本酒なら北雪と決めている。
まさか熱海で北雪が飲めるとは思わなかった。伊藤が飲み物のメニューを見ると北雪の純米大吟醸があったのだ(さらにこうも書いてあった。数量限定と)。伊藤は四十代くらいの女の従業員に訊ねた。「この酒は本当にあるのか」と。すると従業員は笑って「もちろんございます」と答えた。一合五千円。伊藤は従業員に言った。「一本そのまま欲しい。それとグラスはワイングラスで頼む」と。従業員は目を丸くしたが、すぐに「かしこまりました」と言って部屋を後にした。
伊藤は、最高の休日だと思った。女と酒、そして車。燈と北雪、そしてアストンマーティン。もう一つ、最高の宿に海が見える露天風呂。アートテイタムが聴けないのは残念だが、それは次の愉しみに取っておく。
伊藤が女と旅行に出かけることは今回だけではない。しかしこれだけ最高の条件が揃うことはなかなかない。
酒が運ばれてきた。伊藤は北雪をワイングラスに注ぐと、グラスに鼻を近づけて香りを楽しんだ。そしてついさっき抱いた燈の肌の匂いを思い出す。そうやって酒と燈を交互に愉しむ。
今度はどうやって燈と交わろうか、どのようにして燈をいたぶってやろうか。伊藤がにんまりと笑う。伊藤は食事をしている獲物を見ながら酒を口に運んだ。獲物には伊藤の心の中がわからない。
「燈、お前は本当に美味しそうに食べるな」
「先生、こんなに美味しいの食べたことがありません。全部美味しいです」
笑いながら燈はそう言った。
「僕の分も食べていいぞ」
「本当ですか?」
「本当だ。足らなかったら頼めばいいからな」
「ありがとうございます」
自分にどれだけ近い人間でも、食べてもいいぞと言って食べるような人間は伊藤の周りにはいない。遠慮しない燈に伊藤は驚くのではなく、逆に心が温まるような思いがした。
燈は、素朴で清純(交わるときは違うが)で無邪気な女だった。伊藤の中で、燈の存在が大きくなっていった。
数年前、新潟のスキー場に行ったときのことだ。宿で出された日本酒に伊藤の心が震えた。そのとき出された酒は北雪。伊藤はその酒に痺れた。そのときから伊藤は日本酒なら北雪と決めている。
まさか熱海で北雪が飲めるとは思わなかった。伊藤が飲み物のメニューを見ると北雪の純米大吟醸があったのだ(さらにこうも書いてあった。数量限定と)。伊藤は四十代くらいの女の従業員に訊ねた。「この酒は本当にあるのか」と。すると従業員は笑って「もちろんございます」と答えた。一合五千円。伊藤は従業員に言った。「一本そのまま欲しい。それとグラスはワイングラスで頼む」と。従業員は目を丸くしたが、すぐに「かしこまりました」と言って部屋を後にした。
伊藤は、最高の休日だと思った。女と酒、そして車。燈と北雪、そしてアストンマーティン。もう一つ、最高の宿に海が見える露天風呂。アートテイタムが聴けないのは残念だが、それは次の愉しみに取っておく。
伊藤が女と旅行に出かけることは今回だけではない。しかしこれだけ最高の条件が揃うことはなかなかない。
酒が運ばれてきた。伊藤は北雪をワイングラスに注ぐと、グラスに鼻を近づけて香りを楽しんだ。そしてついさっき抱いた燈の肌の匂いを思い出す。そうやって酒と燈を交互に愉しむ。
今度はどうやって燈と交わろうか、どのようにして燈をいたぶってやろうか。伊藤がにんまりと笑う。伊藤は食事をしている獲物を見ながら酒を口に運んだ。獲物には伊藤の心の中がわからない。
「燈、お前は本当に美味しそうに食べるな」
「先生、こんなに美味しいの食べたことがありません。全部美味しいです」
笑いながら燈はそう言った。
「僕の分も食べていいぞ」
「本当ですか?」
「本当だ。足らなかったら頼めばいいからな」
「ありがとうございます」
自分にどれだけ近い人間でも、食べてもいいぞと言って食べるような人間は伊藤の周りにはいない。遠慮しない燈に伊藤は驚くのではなく、逆に心が温まるような思いがした。
燈は、素朴で清純(交わるときは違うが)で無邪気な女だった。伊藤の中で、燈の存在が大きくなっていった。

