この作品は18歳未満閲覧禁止です

- 小
- 中
- 大
- テキストサイズ
千一夜
第28章 第五夜 線状降水帯Ⅱ ①

「何だ?」
「別件で伊藤に相談したいことがあるのよ」
「言えよ」
「少し長くなると思うから、伊藤に時間を作って欲しいの」
「わかった。週明けに連絡する」
「待ってるわ。それじゃあ」
「ああ」
箱根料理旅館六合。伊藤は箱根にある客室数十二のこの高級料理旅館を買った。前オーナーが伊藤に提示した譲渡金額は相場よりもかなり高かったが、伊藤は全オーナーのいう金額で箱根の旅館を手に入れた。
確かに昨今の日本では経営不振の旅館が売却されるという事案は増えてはいる。しかし、インバウンドなどで脚光を浴びている箱根の老舗旅館は決して安くはない。
伊藤の会社のすべての人間が、六合の新しいオーナーが伊藤であるということを知っている。社員割引五十%を使っても、伊藤の会社の多くの社員は六合に宿泊できない。老舗で高級料理旅館の宿泊料金は、一般の人間が気軽に行ける金額ではない。
契約前、前のオーナーは伊藤にこう言った。旅館スタッフ全員の雇用を守ってほしいこと。これは旅館経営の素人である伊藤にとって願ってもないことだった。そして古くからの顧客を一番に考えること。この約束のせいでオーナーの伊藤ですら宿泊できないことがある。最後は旅館の基本理念をこのまま堅持していくこと。もちろん伊藤はそれらの取り決めをすべて守っている。
週末の六合は満室だった。いつもなら伊藤は両親と希と希の間にできた娘を連れて安らぎの場にやって来る。
今日はすべての部屋がふさがっている。だから伊藤はいつも使う貴賓室を六合の馴染みの客に譲った。両親と娘の姫(ひめ)は箱根の別の旅館に宿泊させ、今日伊藤は六合の特別室で希と過ごす。
伊藤の両親は孫娘に夢中だ。伊藤や伊藤の仕事は眼中にない。加えて伊藤と希にプレッシャーをかけている。次は男の子だと。
豊かさを失いたくない希は不安になった。伊藤の両親に孫を抱かせても自分は伊藤の妻ではない。伊藤が自分に興味を示さなくなったら間違いなく自分は追い出される。そのときは、信じられないくらいのお金を手にすることができるだろう。でも今の身分を放棄するなんて御免だ。妻でなくても、世間は自分のことを伊藤の女だと思っている。伊藤の妻になれなくてもこれからも伊藤の女でいたい。
そんな希を部屋に残して、伊藤は六合のロビーに一人でいた。伊藤以外の客は六合自慢の趣のある部屋で寛いでいる。
「別件で伊藤に相談したいことがあるのよ」
「言えよ」
「少し長くなると思うから、伊藤に時間を作って欲しいの」
「わかった。週明けに連絡する」
「待ってるわ。それじゃあ」
「ああ」
箱根料理旅館六合。伊藤は箱根にある客室数十二のこの高級料理旅館を買った。前オーナーが伊藤に提示した譲渡金額は相場よりもかなり高かったが、伊藤は全オーナーのいう金額で箱根の旅館を手に入れた。
確かに昨今の日本では経営不振の旅館が売却されるという事案は増えてはいる。しかし、インバウンドなどで脚光を浴びている箱根の老舗旅館は決して安くはない。
伊藤の会社のすべての人間が、六合の新しいオーナーが伊藤であるということを知っている。社員割引五十%を使っても、伊藤の会社の多くの社員は六合に宿泊できない。老舗で高級料理旅館の宿泊料金は、一般の人間が気軽に行ける金額ではない。
契約前、前のオーナーは伊藤にこう言った。旅館スタッフ全員の雇用を守ってほしいこと。これは旅館経営の素人である伊藤にとって願ってもないことだった。そして古くからの顧客を一番に考えること。この約束のせいでオーナーの伊藤ですら宿泊できないことがある。最後は旅館の基本理念をこのまま堅持していくこと。もちろん伊藤はそれらの取り決めをすべて守っている。
週末の六合は満室だった。いつもなら伊藤は両親と希と希の間にできた娘を連れて安らぎの場にやって来る。
今日はすべての部屋がふさがっている。だから伊藤はいつも使う貴賓室を六合の馴染みの客に譲った。両親と娘の姫(ひめ)は箱根の別の旅館に宿泊させ、今日伊藤は六合の特別室で希と過ごす。
伊藤の両親は孫娘に夢中だ。伊藤や伊藤の仕事は眼中にない。加えて伊藤と希にプレッシャーをかけている。次は男の子だと。
豊かさを失いたくない希は不安になった。伊藤の両親に孫を抱かせても自分は伊藤の妻ではない。伊藤が自分に興味を示さなくなったら間違いなく自分は追い出される。そのときは、信じられないくらいのお金を手にすることができるだろう。でも今の身分を放棄するなんて御免だ。妻でなくても、世間は自分のことを伊藤の女だと思っている。伊藤の妻になれなくてもこれからも伊藤の女でいたい。
そんな希を部屋に残して、伊藤は六合のロビーに一人でいた。伊藤以外の客は六合自慢の趣のある部屋で寛いでいる。

