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千一夜
第28章 第五夜 線状降水帯Ⅱ ①

ソファにもたれ腕を組んでいた伊藤は、テーブルの上に積まれた書類に目をやった。月曜は朝から夕方まで、伊藤が出なければならない会議がいくつかある。間違いなく伊藤は定時に帰宅することはできない。
「はぁ」と伊藤は何度か深くため息をついた。ふと香苗の言葉が伊藤の頭に甦った。地位を手放したくないおっさんたち。滑稽なやつらだ。人生は思うほど長くない。なぜそこまで上り詰めた人間が、舞台から降りようとしないのだろうか。彼らは気付いていないのだ。誰もおっさんの猿芝居なんて見ていないということを。
家に戻ることなく、孫娘を異常なほど溺愛している自分の両親の方が、真っ当だと伊藤は思った。
丸氷の周りを琥珀色の妖精たちが泳いでいる。グレンリベット25年が入っているグラスに伊藤が手を伸ばそうとしたとき、また伊藤のスマホが着信音を鳴らした。
スマホを手に取り、発信者を確認する。伊藤は「ちっ」と小さく舌打ちした。
「何か用か?」
伊藤を不機嫌にさせたのは伊藤の妹だった。
「何か用かじゃないわよ。お兄ちゃん、これ何よ?」
「これって何のことだ?」
「お兄ちゃんの旅館から請求書が届いたんですけど」
「旅館に泊まったら支払いをする。当たり前だろ」
「私、お兄ちゃんの妹なんですけど」
「だから?」
「だから……宿泊費くらいサービスしてよ」
「どうして?」
「私はお兄ちゃんの妹なんです!」
「請求金額はいくらだ?」
「車が買えそうなんですけど」
「確かお前たち家族四人で週末二泊したよな?」
「そうです」
「貴賓室を予約しただろ?」
「素晴らしお部屋でした」
「その素晴らしい部屋で何を飲んだ?」
「飲んだ? ……どういうこと?」
「何か飲んだだろ?」
「ワイン……かな」
「そうだ。お前とお前の亭主が飲んだワインはドメーヌ・ルフレーブのモンラッシェだ」
「それがどうかした?」
「ワインリストで値段を見なかったのか?」
「あれって英語かフランス語で書いてるでしょ」
「相変わらずだな」
「何が?」
「嘘が下手だ」
「嘘なんか言ってないわよ」
「旅館のワインリストにはちゃんと日本語が書いてある。ドメーヌ・ルフレーブのモンラッシェは、今旅館で出しているワインの中で一番高いワインだ。お前は一番高価なそれを選んだ」
「ばれた?」
「もうお前には呆れてものも言えない」
「助けてよお兄ちゃん」
「無理だ」
「はぁ」と伊藤は何度か深くため息をついた。ふと香苗の言葉が伊藤の頭に甦った。地位を手放したくないおっさんたち。滑稽なやつらだ。人生は思うほど長くない。なぜそこまで上り詰めた人間が、舞台から降りようとしないのだろうか。彼らは気付いていないのだ。誰もおっさんの猿芝居なんて見ていないということを。
家に戻ることなく、孫娘を異常なほど溺愛している自分の両親の方が、真っ当だと伊藤は思った。
丸氷の周りを琥珀色の妖精たちが泳いでいる。グレンリベット25年が入っているグラスに伊藤が手を伸ばそうとしたとき、また伊藤のスマホが着信音を鳴らした。
スマホを手に取り、発信者を確認する。伊藤は「ちっ」と小さく舌打ちした。
「何か用か?」
伊藤を不機嫌にさせたのは伊藤の妹だった。
「何か用かじゃないわよ。お兄ちゃん、これ何よ?」
「これって何のことだ?」
「お兄ちゃんの旅館から請求書が届いたんですけど」
「旅館に泊まったら支払いをする。当たり前だろ」
「私、お兄ちゃんの妹なんですけど」
「だから?」
「だから……宿泊費くらいサービスしてよ」
「どうして?」
「私はお兄ちゃんの妹なんです!」
「請求金額はいくらだ?」
「車が買えそうなんですけど」
「確かお前たち家族四人で週末二泊したよな?」
「そうです」
「貴賓室を予約しただろ?」
「素晴らしお部屋でした」
「その素晴らしい部屋で何を飲んだ?」
「飲んだ? ……どういうこと?」
「何か飲んだだろ?」
「ワイン……かな」
「そうだ。お前とお前の亭主が飲んだワインはドメーヌ・ルフレーブのモンラッシェだ」
「それがどうかした?」
「ワインリストで値段を見なかったのか?」
「あれって英語かフランス語で書いてるでしょ」
「相変わらずだな」
「何が?」
「嘘が下手だ」
「嘘なんか言ってないわよ」
「旅館のワインリストにはちゃんと日本語が書いてある。ドメーヌ・ルフレーブのモンラッシェは、今旅館で出しているワインの中で一番高いワインだ。お前は一番高価なそれを選んだ」
「ばれた?」
「もうお前には呆れてものも言えない」
「助けてよお兄ちゃん」
「無理だ」

