パソコンから！ケータイから！スマホから！無料でどこでも気軽に楽しめる官能小説サイト

第33章 第五夜　線状降水帯Ⅱ 　⑥

「父は僕にこう言いました『人生を飾らずに前を向いて必死に生きていこうとする人をバカにするな！』。自慢になりますが、僕は小学生の頃から勉強だけはできました。小学校から高校まで生徒会長もさせていただきました。そのせいかどうかはわかりませんが、僕には父や母から叱られたという記憶がないんです。悲しいかな僕は尊敬する教師に巡り合ったことが一度もありません。彼らが発する言葉はいつもインチキでとても空しく、僕の中に留まることなくすっと抜けていったのですが、そのときの父の言葉だけは今でも僕の心の中で生きています」
「……ねぇ、今伊藤のお父さん何してるの？」
「孫ができてからずっと一緒に暮らしてます。どうやら僕の娘から離れたくないようです」
「伊藤に子供がいるなんて想像できないわ」
「時間があるときは、家で姫と、姫は僕の娘の名前なんですが、姫と二人でアニメを見ていますよ」
「伊藤ってマイホームパパじゃん。伊藤が自分の子供とアニメ見てる姿何だかシュールだよね」
「僕の娘は僕の作った映画より誰かが作ったアニメの方が好きなんです。僕はアニメを見ながらいつも嫉妬してますよ。このアニメを作ったクソ野郎に」
「ふふふ」
「笑い事じゃない、僕の嫉妬は今最高点まで達してるんです」
「アニメに嫉妬する伊藤こそガキじゃないの？」
「ですね。悔しいんでそのアニメの制作会社を買収しましたが、少々憂鬱なのは家に帰るとそのアニメのグッズが、僕の聖域を侵略し始めたんです。今僕は次なる報復攻撃を考えているところです」
「伊藤ってまじであほだね」
「ははは」
　伊藤は腹の底から笑った。伊藤の脳裏に自宅リビングに置かれている大きなぬいぐるみが浮かんだ。
「でも幸せそうな伊藤はむかつくけどね」
「倉田さん」
　伊藤はカレン目をじっと見た。
「何？」
「どうしましょうか。今ここで土下座しましょうか？」
「いいわよ、もうそんなの」
「上場会社の社長の土下座を見るチャンスなんてないですよ」
「だからいいって言ってるじゃない。伊藤の土下座なんて見たら私が惨めになるわよ。伊藤の子供にも悪いしさ。伊藤の土下座は私以外の誰かに見せて」
「わかりました」
　そう言って伊藤はカレンに頭を下げた。
「ねぇ、代わりと言ったら何だけど、それ頂戴よ」
「それ？」
　伊藤は自分に向かっているカレンの視線の先を見た。
「その安物の腕時計」