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千一夜
第48章 第7夜 訪問者 正体
“夫婦喧嘩は犬も食わぬ”と言われる。私と咲子の言い合い(喧嘩?)を樋口はよく我慢してくれた。
 どちらにつくわけでもなく、意見を求められば、中立の立場でしっかりものを言ってくれた。もちろん流すところは流して。
 一時間のうち三分の二、いや四分の三くらいは咲子が話していた。持ち時間(喧嘩にそんなものはないが)を計っていれば明らかに不公平だ。だが私は正直言い合いに飽きたのだ。馬鹿馬鹿しい。面倒くさい。非生産的な言い争いなんて自分から降りた方がいいに決まっている。だから私は咲子の声をBGMにして車窓の風景を楽しむことにした。
「はい、着きましたで」
「お疲れさまでした」
 労いの言葉を掛けたのは私だけで、咲子は何も言わなかった。
「そやけど奥さん、旦那さん優しい人やないですか」
「主人が?」
「夫婦喧嘩はやんわりやるもんです。むきになったらあかん。そやさかい、どちらかが一歩引く。引いたから言うて負けちゃいます。そこで試合終了や。引き分けですがな。夫婦言うもんは引き分けが一番なんですよ。どちらが勝っても負けてもあきまへん」
「……」
 咲子は何も言わなかった。もちろん私も。
「それにしても旦那さんも奥さんもええチョイスしてはるわ。大仏さんと鹿さんを避けてここを選ばれはった。私も奈良の人間やけど、大仏さんと鹿さんはお勧めしまへんな。大仏さんもびっくりしてはると思いますわ。ぎょうさんのひとが来られるんでね。私なんか鹿せんべいの食い過ぎで鹿さんが糖尿にならへんか心配してますわ。ははは。ここ笑うところでっせ、ははは」
「……」
 私も咲子も声を出して笑うことはなかった。私は咲子を見て、咲子は私を見て互いに口角を少しだけ上げた。
「今日はええ天気でっせ」
 雨は降っていなかったが、空は薄い雲に覆われていた。
「奈良はこれが一番や。カンカン照りはえげつない。雨降りなんて興ざめや。今日みたいな日が奈良を一番楽しむことが出来る。旦那さん、奥さん、ついてますよ。ゆっくりのんびりしてきなはれ。ここかて世界遺産や。外人さんもここにはあまり来まへんからな。おっと、こんなこと言うたら差別になってしまうわ。気ぃつけないけんませんな。今んとこきかんかったことにしてくださいな。ほな、ここで待ってますよ」
 私と咲子は車から降りて、薬師寺南門に向かった。
 私は……何か大事なことを忘れている。
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