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千一夜
第49章 第七夜 訪問者 妖の灯
「君はこの旅館に着いてから俺たち以外の客を見たか?」
「そう言えば……誰にも会っていないわね」
「変だと思わないか?」
「到着していないお客さんもいるんじゃない? それに今部屋でくつろいでいるとか」
「今何時だ?」
「ええと、四時五十分。それがどうかした?」
咲子は左の手首に巻いたカルティエのベニュワールを見てそう答えた。
「こういう旅館に宿泊する客って、温泉とか料理を楽しみしている客だと思うんだ。この旅館のチェックインの時間は二時三十分。俺だったらなるべく早く宿に入って、部屋に荷物を置いたら温泉に向かう。それから夕食までの時間を外に出るもよし、部屋でのんびりするもよし。違うか?」
「そうだけど、でも人って色々じゃない。ひょっとしたら今お風呂に入っているお客さんがいるかもしれないわよ」
「なるほど」
そうは言ったが、まだ何かが引っかかる。
それから私たちは二階の談話室に向かった。部屋に入ると音楽が聴こえた。
「山の中のレトロな旅館でジャズだなんて、何だかとてもおしゃれね」
「だよな。このピアノは誰が弾いているのかな?」
「亮ちゃん、ジャズに詳しいの?」
「全然。俺が知ってるのはオスカーピーターソンとアートテイタムくらいだ。つまりど素人だよ、俺なんて」
「……」
「おい、どうしたんだ?」
咲子が私の腕にしがみついてきたのだ。
「ここでキスする?」
「来月選挙を控えているんだぞ。候補者が奈良で公序良俗違反だなんてしゃれにならないよ」
「何よそれ。もう亮ちゃん、バカなんだから」
「バカで結構だ。なぁ、咲子」
「何?」
「ここでずっと暮らすのも悪くないと思わないか?」
「そんなこと言ったらパパが怒るわよ」
「拙いことを言ってしまった。頼むから黙っててくれ」
私はそう言っておどけた。
「ふふふ。どうしようかしら、ふふふ」
木の香りの中で誰かが奏でるピアノの音が揺らいでいる。私は咲子にキスをした。誰かに見られても構わない。たとえその人物が私の街の人間で、投票所の入場券が郵送される人間であったとしてもだ。私は正々堂々と咲子にキスをする。
“Autumn leaves”もしかしたらビルエバンストリオかもしれない。樋口の車に乗っているとき窓越しに見えた奈良の紅葉。出来過ぎだ。完璧過ぎる。私と咲子は誰かにコントロールされている。
私と咲子は誰かに操られている。
「そう言えば……誰にも会っていないわね」
「変だと思わないか?」
「到着していないお客さんもいるんじゃない? それに今部屋でくつろいでいるとか」
「今何時だ?」
「ええと、四時五十分。それがどうかした?」
咲子は左の手首に巻いたカルティエのベニュワールを見てそう答えた。
「こういう旅館に宿泊する客って、温泉とか料理を楽しみしている客だと思うんだ。この旅館のチェックインの時間は二時三十分。俺だったらなるべく早く宿に入って、部屋に荷物を置いたら温泉に向かう。それから夕食までの時間を外に出るもよし、部屋でのんびりするもよし。違うか?」
「そうだけど、でも人って色々じゃない。ひょっとしたら今お風呂に入っているお客さんがいるかもしれないわよ」
「なるほど」
そうは言ったが、まだ何かが引っかかる。
それから私たちは二階の談話室に向かった。部屋に入ると音楽が聴こえた。
「山の中のレトロな旅館でジャズだなんて、何だかとてもおしゃれね」
「だよな。このピアノは誰が弾いているのかな?」
「亮ちゃん、ジャズに詳しいの?」
「全然。俺が知ってるのはオスカーピーターソンとアートテイタムくらいだ。つまりど素人だよ、俺なんて」
「……」
「おい、どうしたんだ?」
咲子が私の腕にしがみついてきたのだ。
「ここでキスする?」
「来月選挙を控えているんだぞ。候補者が奈良で公序良俗違反だなんてしゃれにならないよ」
「何よそれ。もう亮ちゃん、バカなんだから」
「バカで結構だ。なぁ、咲子」
「何?」
「ここでずっと暮らすのも悪くないと思わないか?」
「そんなこと言ったらパパが怒るわよ」
「拙いことを言ってしまった。頼むから黙っててくれ」
私はそう言っておどけた。
「ふふふ。どうしようかしら、ふふふ」
木の香りの中で誰かが奏でるピアノの音が揺らいでいる。私は咲子にキスをした。誰かに見られても構わない。たとえその人物が私の街の人間で、投票所の入場券が郵送される人間であったとしてもだ。私は正々堂々と咲子にキスをする。
“Autumn leaves”もしかしたらビルエバンストリオかもしれない。樋口の車に乗っているとき窓越しに見えた奈良の紅葉。出来過ぎだ。完璧過ぎる。私と咲子は誰かにコントロールされている。
私と咲子は誰かに操られている。

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