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千一夜
第6章 第二夜 パヴァーヌ ②
「Phareって何と読むの?」
 私は主人の出したメモを見てそう訊ねた。
「ファール」
「英語?」
「いやフランス語だ」
「ファールってどういう意味?」
「灯台」
「東大?」
「そっちの東大じゃない。海の灯台。わかるだろ」
「うん」
「この店で勉強する。それでどうだ?」
「いいけど、お店なんでしょ。お客さんとかいるんじゃない?」
「心配ない。大学に入って初めて俺がバイトした店だ。オーナーがおもしろい男で客が来ると怒るんだよ」
「何でお客さんが来ると怒るの? ばかじゃない?」
「だよな。だから店には人がいない」
「それで食べていけるの?」
「店なんて道楽でやっているんだ」
「変なの」
「そう、変な親父だ」
「わかった。じゃあそのお店で勉強する」
「期末テストは何とか挽回しないとな」
「うん……健太」
「何?」
「キスして」
「甘えん坊だな飛鳥ちゃんは」
「うるさい、ばか健太」
 主人が私を強く抱きしめた。私も主人も姉のことについて一言も話さなかった。いや姉の話はタブーなのだ。話したところで姉が帰ってくることがないことは、私も主人もわかっている。
 主人の唇と私の唇が重なる。きっと主人は私の口の中に舌は入れない。それは主人がもういったからではない。
 私や主人にとって今大切なことは救いなのだ。私は主人と唇が重なっているだけで救われる。
 主人が優しく私の髪をなでる。主人はどうして髪を切ったのかと私に聞かなかった。
 私には誰かに誇れるようなものは一つもなかった。そんな私の唯一の自慢は長い髪だった。長い髪をポニーテールにしたり、ときにはツインテールにしたり、私は自分の長い髪が好きだった。
 私もなぜ髪を切ったのかは主人には言いたくなかった。いや違う、なぜ髪を切ったのか?  
私はそのことを今は誰にも言えないのだ。
 今それを言ってしまうと、私は壊れる、私は私でなくなる。それが怖い。
「健太」
「何?」
「どうしよう。私、健太のことが好き」
「……」
「健太のことを愛している。どうしたらいい?」
「……」
 主人はまっすぐ私を見ていた。」
「何も言わないなんてずるいよ、健太のばか」
 私は主人の胸の中で泣いた。
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